多くの事実が目の前にあっても、真剣に思考を深めなければ結論を得ることはできません。これらの事実に対して疑問を起こし、繰り返し入念に考察を重ねてこそ、事象の背後にある真理を発見し、結論を導き出すことができるのです。この結論こそが新たな認識であり、智慧の結晶であります。日常生活においても、仏法の修証においても、全ては証拠を集め事実を発見し、疑情を起こし、専心して思考を凝らし、結論を得るという過程を経なければなりません。こうして無明が破れ智慧が生まれるのです。
この中で最も難しいのはどの段階でしょうか。事実資料の収集、事実の発見、疑情の発生、それとも専心の思考でしょうか。日常生活には無数の事実が存在しますが、私たちは往々にして見て見ぬふりをし、無関心でいるため、これらの事実に疑問を抱かず、ましてやその背後にある道理を思索しようとはしません。それゆえ新たな発見もなく、従来の誤った知見を打破することもできず、智慧を成長させることもできないのです。疑いを起こせないということは、つまり覚りがないということです。覚りの心を培うことが何よりも大切なのです。
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