衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年04月26日    月曜日     第4 回の開示 合計3348回の開示

聞法後の実修こそ王道

広く学び多く聞くことを、他人の宝を数えると言う。自分には一文も分け持たず、他人の宝を見た後は、自らの宝を得る方法を考えねばならない。自らの宝を数えるとはどのような心境であるべきか。淵に臨んで魚を羨むよりは、退いて網を結べ。深淵にどれほどの魚がいるか見ても、自分に属するものではない。賢者は振り返って網を結び、網で捕らえてこそ享受できる。しかしこの世の中では、聡明で智慧ある者が少ないようだ。ただ他人の宝を賞賛し、自らの宝を持とうとせず、飢えても構わない。ある者は日々説法を聞くことに熱中しながら、決して修行によって法を得ようとしない。他人のものを見終わったら、自らに立ち返るべきだ。自らが持ってこそ真に所有と言える。他人が持っているものをどうして自分のものと見做せようか。

古人は学びて思わざれば則ち罔しと言ったが、我々は学びて修めざれば則ち罔しと言うべきである。多くの者も思索するが、その思索は浅薄で禅定がなく、法の表面をなぞるだけで深く入り込めず、皮毛を知っただけで証した証したと語り、浅薄で傲慢なのが憐れむべきである。そのような思索は修業とは言えない。修業とは自らの身心を修めることであり、身心が修められた後、相応の変化が現れてこそ修めたと言える。もし人が元の人のままで、心が元の心のまま、煩悩も以前と変わらなければ、どうして修めたと言えようか。ましてや修めた後の果報などあるはずがない。自ら認めた果報は容易に溶けて腐る。

——生如法師の開示
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