白骨観行日誌(二):朝目を閉じて座禅中、右足の踝の骨が少し痒いと感じた。突然(目を閉じた状態で見える)踝の痒い部分が腐乱しているのが見えた。指で一線を引くように観想すると、全身の肉が崩れ落ち、骨格だけが残った。ただし骨には黒赤い血筋と肉糸が付着しており、白骨観の最終段階で現れる真っ白な骨ではなかった。これは白骨観の中間過程に過ぎず、まず皮が剥がれ、次に肉が落ち、筋と骨が残る段階が順番に現れるのだと理解した。何もない状態から突然白骨を観想することはできず、修行は段階的に進むもので、これは中間段階である。さらに進んだ境地が現れた後、初めて白骨が顕現し、その時こそ白骨観が成就し、証果を得るのであろう。
評:最初の観行において、独頭意識は非量の方法で徐々に契合させ、あるいは非量の方法で求証することが可能である。眼識と意識では白骨を見ることができず、独頭意識が身体の白骨を想像するのは非量である。この非量によって意根を薫習させる。困難ではあるが、最終結果が事実であるため、意根は遅かれ早かれ事実を見る。薫習が成功した時、意根は身体を白骨と認め、白骨境界が現量として顕現する。これは意根が現量で観るものである。五蘊を観行する際にも、独頭意識の非量から意根の現量証得への移行がある。例えば過去世の色身や未来世の色身を観るのは意識の非量による想像だが、最終的に意根が薫習成就し、過去未来の五蘊が空であることを証見し、五蘊無我を認めれば証果を得る。
なぜ意根の現起は全て現量境界なのか。意根の全ての認識は如来蔵によって現れ、如来蔵が現す法が何であれ、意根は直接縁じて知り認めるためである。故に意根の了別は現量境界であり、比量も非量もない。この時、独頭意識も現量の認知となる。意識による観行時には現量がなく、比量や非量があるかもしれないが、意根が薫習された後は必ず現量境界の認知となる。
現起した白骨観境界から観察し、三昧境界から観察すれば、誰が先に法を証するか明らかである。必ず意根が先に法を証し、その後独頭意識が現量で了別する。意根は瞬間的な頓悟であり、頓悟後には智慧が生起し、以前の智慧認識とは全く異なる。この時「なるほどそうだったのか」と腿を叩いて悟る可能性がある。腿や額を叩く動作は驚きを表し、以前知らなかった道理を知り、従来の認識を覆す頓悟の瞬間を示す。一切法の証得には必ず三昧境界が現れる。頓悟時には三昧境界が現前するのであり、徐々に理解する意識の思惟とは異なり、法の奥義を完全に理解することはない。意根が証する時は白黒が明確で、虚偽のない確かなものである。
白骨観の三昧境界及び全ての三昧境界は、五識が如何に努力しても見えず、五倶意識も見えない。独頭意識のみが現量了別できる境界である。白骨は五識では見えず、五倶意識でも見えない。独頭意識と意根が現量智慧を持つ時に初めて見える。六識が白骨を見られない時、白骨観は非量の観行であり、白骨を想像しているに過ぎない。白骨が真に現前した時、独頭意識と意根が共に現量了別する。これが全ての証が現量境界であることの証左である。比量や非量の臆測による境界には証も三昧境界もない。証果と明心、一切法の証得は全てこの原理に従い、実証と推論思惟の関係を明らかに理解すべきである。今後の修行方法も自ずと明らかになるはずである。
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