濤の四念処観行日記:私が四念処の訓練を初期段階で行っている時、座中の妄念が非常に激しく、観行が困難でした。現在この関門を越え、座禅時に重い妄念に労力を費やす必要なく呼吸に安住でき、浅い定に入り軽微な身心分離感を生じるまでになりました。
しかし自らの意根と意識の定慧力が依然として非常に微弱だと気付きました。例えるなら、春になり山間の川が渇水期を過ぎたばかりで、せせらぎは小さな筏を浮かべられる程度で、木舟を支える力はなく、まして大河のように水深があり波が立ち、巨大な軍艦を運べるほどの力は全くありません。今こそ仏法でよく言われる「乾慧」の意味を実感しています。私のような仏法初心者の凡夫は、意識で般若の理を少し理解していても定力が未熟なため、いわゆる「慧」は表層意識の思弁に過ぎず、師匠がおっしゃるように、このような「悟り」は誤解の「誤」でしかございません。かつての独善的で誇大な言動を心から懺悔すべきです。
現在の訓練では粗い妄念が鎮まったことは、意根という牛が以前ほど狂暴ではなくなり、性質が幾分穏やかになったことを意味しますが、依然として活発で落ち着きがありません。座禅時に呼吸観察に集中するのは、呼吸という縄でこの牛をしっかり繋ぎ、外界への執着を減らすためです。
意根の牛が落ち着かない根本原因は、無始劫以来の無明により六塵の境界を真実と錯覚し、それを自らの糧として貪り続けてきたことにあります。よって意識という牧童は暇を見て絶えず意根の牛に、六塵の境界は虚妄であり、六根は幻化、六塵は幻化であり、根塵が接触する時、塵境を認識する六識も単なる一連の識種子に過ぎないと諭さねばなりません。色法も空、心法も空、意識が認識する山河大地や自我身心は内六塵が脳内に生じる複雑な電気信号に過ぎず、重なる妄念は意識が創り出した虚妄の独影法塵で、真実と呼べるものは何一つない...この真理を心の奥底に刻み込み、意根の牛が反芻することを願い、いつか豁然と悟る日を待ち望みます。
評:全ての粗重な妄念と微細な妄念は、意根が無始劫以来境界を真実と認め固執し続けた習性の慣性力です。激しく走る車のブレーキが効きにくいように、意識による制御は非常に困難で、多くの人は制御せずに加速し続けます。この車を徐々に減速させ安全に走行させる方法は、私たちが深く考えるべき重要な課題です。
今まさに四念処の観行目標があるおかげで、意根が精力を次第に転移させ安住するにつれ、車速は緩み揺れが収まります。煩悩雑事から注意力を引き離し呼吸という一事に向けると、心が静まり煩悩が沈殿し、澄んだ水面に五蘊の真実の姿が映し出されます。五蘊がそれほど確実でないことに気付けば、無明煩悩は次第に心から離れ、苦痛が減少消滅し安穏を得られます。
四念処は仏陀が開示した身心の病を治す良薬です。疑わずに服用すれば身心の病が消え智慧解脱を得られます。仏陀は大医王であり、衆生を水火から救い出し、その導きに従えば必ず彼岸のオアシスに安住できます。
意識は修行過程全体で、案内人のように意根に方向を示します。意根が方向を悟り正道を歩み始めたら、自らの心力と智慧で一切の境界に向き合い思索し真相を探求し、誤った認識を改めることで新生を得るのです。意識という副操縦士は傍らで補助するだけで、五蘊の車はあくまで意根自らが運転するもので、意識が代わることはできません。
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