衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年04月25日    日曜日     第3 回の開示 合計3344回の開示

三昧は意根の現量境界(一)

白骨観日誌(一):私が座禅の後半になると、眼前にはっきりと血管中の血液の流れが見え、見たくなくても脳裏に浮かびました。座を下りて目を閉じ手を擦り合わせる際、赤い塊が現れ、中は橘の房のようで、果肉が蠕動していました。さらに手を擦り続けると、赤い塊は白く輝き始め、立体的な画像が現れました。拡大された毛穴と体毛、角質、赤い腫れ物と炎症を起こした毛穴で、非常に不快感を覚えました。座を下りて手を擦ると画像が現れる現象は、いかなるものなのでしょうか。

思考問題:平常では決して見られない現象が、座禅中に何故見えるのか。どの識が認識しているのか。見ているのはどのような境界か。座禅していない時にも見えるのか。

この観行日誌に描かれた現象は定中独影境に属し、定境法塵である。定境法塵は独頭意識の現量了別によるもので、比量でも非量了別でもない。初めて定に入り白骨観を修する時は、独頭意識による非量的な想像であるが、長年の修練で意根が染まると、意根の現量によって白骨観の境界が現れる。意根が現量で示す境界こそ三昧の境地であり、禅定と智慧を含む定慧等持の状態である。この観行の結果には必ず智慧が生じ、智慧のないものは最終結果ではなく中間過程である。

定中独影境は意根が現量で示すもので、独頭意識が再び現量で白骨現象を了別する。意根が染まると、その認知する境界を現量で示し、意根がどの境界を認知するかによって如来蔵はその境界を現し、独頭意識が了別する。これが三昧境界である。三昧境界では禅定が極めて強く、智慧も極めて強い。禅定は「専注」と理解しやすいが、智慧とは何か。ここでの智慧とは五陰の肉体が白骨の集まりであると認めることで、意根がこれを認めれば白骨観は成就する(あるいは中間過程が成就する)。最終段階では白骨を微塵に変化させ、やがて微塵も消滅する。これら全て意根の現量による証得境界である。

座を下りた後もこの定境法塵は存在するか。心が散乱しなければ依然として定中にあり、三昧状態にあれば行住坐臥全てに白骨が現れる。前五識は了別できず、五俱意識も了別できず、独頭意識のみが了別する。三昧境界は全て独影境であり、個人が独自に修得するもので、公共の外法塵や外五塵を持たないため他人には見えない。

あらゆる三昧、禅定の三昧であれ定慧等持の三昧境界であれ、全て意根によって発起される。意根が染まっていなければ智慧は生じず、三昧境界は現れない。念仏三昧という禅定も、意識で念仏を唱え続けることで意根を染め、意根が自動的に念仏するようになる。禅定中に意識が疲労して念仏したくなくなっても、染まった意根は自発的に念仏を続ける。言語や音声のない念仏で、独頭意識のみが感知できる。意根は意識の意思に関わらず念仏し、意識が制御しようとしても不可能となる。これが念仏三昧の状態である。

念仏三昧の境界にある時、行住坐臥の全てにおいて念仏の声が耳元(実際は心中)に響く。音声はなく意念のみである。この念仏声は意識の発するものではなく、意識が念じたくなくても聞こえ続ける。これは意根が念仏し、如来蔵がそれに応じて念仏声を現すためで、意識の制御を超えている。意根に言語文字はないが、独頭意識が念仏声を了別し、聞きたくなくても聞き続けなければならない。

我見を断じて証果する時、法眼浄の三昧境界が現れる。これには未到地定と苦空無常無我の無生智慧が含まれる。この智慧は誰が現すのか。意根が現すのである。意識が日常的に観行して意根を染め、意根が四聖諦の理を思量し、最終的に五蘊の苦空無常無我を証得する時、法眼浄の三昧境界が現れる。禅定中に意根が如理の結果を思量し、智慧が生じる。この三昧は意根が現し、独頭意識が現量了別する。故にあらゆる実証法は意根と意識の現量証であり、意根と現量が相応する。比量や非量はなく、意根が主動的に現す法のみが現量であり三昧である。

意根が我見を断じ証果した後、三昧境界にあると覚明現象が現れる。三昧がなければ覚明はない。覚明は意根が未知の境界に触証し、興奮と驚喜が心を引き起こす現象で、意識では発生しない。覚明が現れるのは禅定三昧状態にある時で、禅定がなければ覚明はない。三昧中は煩悩が極めて微弱で、ほぼ現れず、全て降伏する。身心は軽安し、覚受は格別で睡眠が減る。禅定中は気血が円滑になり、精も神も満ち、欲望が降伏し、睡眠は極めて浅く「睡眠蓋」がない状態となる。一日三四時間の睡眠で足りる。これら全て意根の現す三昧境界である。

明心も同様で、意根が本心を証得すると三昧状態に入り、行住坐臥全てが定中となる。般若智慧が生じ、煩悩は極めて微弱で覚明も現前する。身心は非常に軽安で快適、自在となり、睡眠も極めて少ない。神が満ちて眠気を思わず、心境は愉悅に満ちる。この状態全てが三昧境界に属する。

真如三昧という境地も証得時は同様である。実際、真如三昧は無生法忍の智慧境界、つまり道種智・唯識種智に属し、初心の悟りでは証得できず、初地に入って初めて得られる。真如三昧とは何か。一切法の真如性と唯識性を証得することである。一切法において自らの本心の運びを見れば、一切法が真如の性質であり、一切法が真如であると知る。この時初地に入り、法無我を分証し、無生法忍を分証し、一真法界を分証し、大乗の解脱を分証する。これを分証即仏ともいう。この段階に至って初めて真如三昧が得られる。初地以前には一切法の真如性を証得できず、唯識種智がなければ一切法上の真如を見ることはできない。真如三昧の智慧は極めて深細であり、それ以前には無生忍の般若智があるのみで唯識智はなく、無生忍の智慧は真如三昧の智慧に比べはるかに浅い。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

四念処観行に関する問答第十五

次の記事 次の記事

いかにして五蘊の車を操るか

ページのトップへ戻る