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日常開示

2021年04月26日    月曜日     第2 回の開示 合計3346回の開示

三昧は意根の現量境界(二)

白骨観行日誌(二):朝目を閉じて座禅を組むと、右足の踝の骨が少し痒く感じた。ふと目を閉じたまま視える踝の痒い部分が腐乱しているのを見た。観想で指先で撫でると、全身の肉が崩れ落ち、骨格だけが残った。しかしその上には黒赤い血の糸や肉の繊維が掛かっており、白骨観の最終段階で現れる真っ白な骨ではなかった。これは白骨観の中間過程に過ぎず、まず皮が剥がれ、次に肉が落ち、まだ筋と骨が残っている段階で、順序立てて現れるものだと考える。何もない状態から突然白骨を観想することはできず、修行は段階を踏んで進むもので、これは中間の境地である。今後さらに進んだ境地が現れ、その後に初めて白骨が現れ、その時こそ白骨観が成就し、悟りの果報を得るのだ。 

評:観行の初期段階において、独頭意識は非量の方法で徐々に真理に近づき、あるいは非量の方法で証得を求めることができる。眼識や意識では白骨を見ることができず、独頭意識が身体を白骨と想像するのは非量である。この非量によって意根を薫習させると、困難ではあるが最終的に事実に至るため、意根はいずれ事実を見る。薫習が成功した時、意根は身体を白骨と認め、白骨の境界が現量として現れる。これは意根が現量で観じたものである。五蘊を観行する際にも、独頭意識の非量から意根の現量証得への移行があり、例えば過去世の色身や未来世の色身を観るのは意識の非量による想像だが、最終的に意根が薫習成就し、過去未来の五蘊が空であることを見極め、五蘊無我を認めれば悟りの果報を得る。 

なぜ意根が現起するものは全て現量境界なのか。意根の全ての認識は如来蔵によって現れ、如来蔵が現す法が何であれ、意根は直接縁じて知り認めるため、意根の了別は現量境界である。比量も非量もなく、この時独頭意識も現量的認知となる。意識による観行時には現量がなく比量や非量があっても、意根が薫習された後は必ず現量境界の認知となる。 

現起した白骨観の境界から観察し、三昧境界から観察すれば、誰が先に法を証得するかは明らかで、必ず意根が先に法を証得し、その後独頭意識が現量了別する。意根は瞬間的な頓悟であり、頓悟後は智慧が生起し、以前の智慧認識とは全く異なる。この時「なるほどそうだったのか」と腿を叩くことがある。腿や額を叩くのは驚きの表現で、従来知らなかった真理を知り、認識を覆す頓悟の瞬間を表す。一切法の証得には必ず三昧境界が現れ、頓悟時には三昧境界が現前する。意識が思考を重ねて徐々に理解しても完全には悟り得ず、法の奥義は未だ明らかでない。しかし意根が証得する時は明白で、虚偽のない確かなものとなる。 

白骨観の三昧境界及び全ての三昧境界は、五識が如何に努力しても見えず、五倶意識も見えない。独頭意識のみが現量了別できる。白骨は五識も五倶意識も見えず、独頭意識と意根が現量智慧を得た時に初めて見える。六識が白骨を見られない時、白骨観は非量の観行であり、白骨を想像する段階である。白骨が真に現前した時、独頭意識と意根が共に現量了別し、全ての証得が現量境界であることを示す。比量や非量による空想なら証得も三昧境界もない。悟りの果報や明心、一切法の証得は全てこの原理に従い、実証と推理思考の関係を理解すれば、今後の修行方法も自ずと明らかとなる。

——生如法師の開示
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