衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年04月26日    月曜日     第1 回の開示 合計3345回の開示

いかにして五蘊の車を操るか

濤氏の四念処観行日記:私が四念処の訓練を始めた初期段階では、座中の妄念が非常に激しく、観行が困難でした。現在この関門を越え、座禅時に重い妄念に煩わされることなく呼吸に安住できるようになり、浅い禅定に入り微細な身心分離感を体験できるまでになりました。

しかし、私の意根と意識における定慧の力は依然として非常に微弱です。例えるなら、春先の山間の小川が渇水期を過ぎたばかりで、せせらぎは小さな竹筏を浮かべる程度で、木舟を載せるには至らず、まして大河のように水深があり波濤が轟いて巨艦を運ぶ力とは程遠い状態です。今になって仏法でよく説かれる「乾慧」の意味が身に染みてわかります。私のような仏道初心者の凡夫は、意識で般若の理屈を多少理解していても、定力が未熟な段階での「慧」は、表層意識の思弁に過ぎず、師匠がおっしゃるように、この種の「悟り」は誤解の「誤」でしかありません。かつての独善的で誇大な言動を心から懺悔すべきです。

現在の修行では、粗い妄念が鎮まったことは、意根の牛が以前ほど狂暴ではなくなり、性質が幾分穏やかになったことを意味します。しかし依然として活発で落ち着きがありません。座禅時に呼吸観察に専念するのは、呼吸という手綱でこの牛をしっかり繋ぎ、外界への執着を減らすためです。

意根の牛が落ち着かない根本原因は、無始劫以来の無明により六塵の境界を真実と錯覚し、それを栄養源として貪り続けてきたことです。だから意識という牧童は暇を見つけては、意根の牛に「六塵は仮のもの、六根は幻、六塵は幻、根塵が接触する時、塵境を弁別する六識も一連の識種子に過ぎない」と諭し続けなければなりません。色法も空、心法も空、意識が認識する山河大地や自我身心は内六塵が脳内に作り出す複雑な電気信号に過ぎず、重なる妄念は意識が生み出す虚妄の独影法塵で、真実と呼べるものは何一つない...この真理を心の奥深くに刻み込み、意根の牛が反芻するのを待ち、いつか豁然と悟る日を期待します。

評:一切の粗重な妄念も微細な妄念も、意根が無始劫以来にわたり境界を真実と認め、執着を重ねて形成した習気の慣性力です。激しく加速した車両のようで、急停止は困難であり、意識による制御は容易ではありません。多くの人は制御しようとせず、むしろ欲望のままにアクセルを踏み続けます。その結末は想像に難くありません。この車両を徐々に減速させ、安全に走行させる方法こそ、私たちが深く考察すべき重要な課題です。

今まさに四念処という観行目標があるおかげで、意根のエネルギーを次第に転換させ、安住させることができ、心の速度が緩み、激しい揺れが収まります。煩悩や雑事から注意力を引き離し、呼吸という一点に直面することで、心が静まり煩悩が沈澱すれば、水面に五蘊の真実の姿が映し出されるでしょう。五蘊がそれほど確固たるものではないと気付く時、無明の煩悩は次第に心から離れ、苦痛が減少し滅していくのです。

四念処は仏陀が開示された身心の病を癒す良薬です。この処方を信じて服用すれば、身心の病が消え、智慧による解脱を得られます。疑う必要はありません。仏陀は大医王であり、衆生を水火の苦しみから救済されます。仏陀の導きに従えば、必ず彼岸のオアシスで安住できるのです。

意識は修行の全過程において、案内人のように意根に方向を示します。一旦意根が方向を悟り正しい道を歩み始めたら、自らの心力と智慧で一切の境界に向き合い、思索を深め、真実を探究し、誤った認識を転換しなければなりません。そうしてこそ真の新生を得られるのです。意識という副操縦士は傍らで補助すればよく、五蘊の車両を運転するのはあくまで意根自身です。意識がその役割を代行することはできません。

——生如法師の開示
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