白骨観日誌(一):座禅の後半、目の前に血管を流れる血液がはっきりと見え、見たくなくても脳裏に浮かびます。座を下り目を閉じて手を擦り合わせると、赤い塊が現れ、中に橘の房のようなものが蠕動しています。さらに手を擦り続けると、赤い塊は白く輝き始め、立体的な映像が現れました。拡大された毛孔と体毛、角質、赤い腫れ物と炎症を起こした毛孔がはっきり見え、非常に不快感を覚えました。座を下り手を擦ると映像が現れるのは、いかなる現象なのでしょうか。
思考問題:日常では決して見られない現象が、座禅中に現れるのはなぜか。どの識が認識しているのか。見ているのはどのような境界か。座禅をしていない時にも現れるのか。
この観行日誌に記述された現象は定中独影境に属し、定境法塵であります。定境法塵は独頭意識の現量了別によるもので、比量でも非量了別でもありません。初めて定に入り白骨観を修する時は、独頭意識の非量的な想像によるものですが、長年の修行で意根が染まり、意根の現量によって白骨観の境界が現れます。意根の現量が現す境界こそ三昧の境界であり、禅定と智慧を含む定慧等持の境地です。この観行の結果には必ず智慧が生起し、智慧のないものは最終結果ではなく中間過程です。
定中独影境は意根の現量によって現れ、独頭意識が再び白骨現象を現量了別します。意根が染まると、その認知した境界を現量で現し、意根がどの境界を認知するかによって如来蔵はその境界を現します。独頭意識がこれを了別するのが三昧境界であり、この境地では禅定も智慧も極めて強くなります。禅定は専注の意味で理解しやすいですが、智慧とは何か。ここでの智慧とは五陰身の肉体が白骨の集まりであることを認めることで、意根がこれを認めた時、白骨観が成就するか中間過程が成就します。最終段階では白骨を微塵に化し、やがて微塵も消滅します。これら全て意根の現量証得による境界です。
座を下りた後もこの定境法塵は存在するのか。心が散乱しなければ依然として定中にあり、三昧状態にあれば行住坐臥全てに白骨が現れます。前五識では了別できず、五倶意識も了別不能で、独頭意識のみが了別します。三昧境界は全て独影境であり、個人が独自に修得するもので、公共の外法塵や外五塵が存在しないため、他人には見えません。 あらゆる三昧、禅定の三昧であれ定慧等持の三昧境界であれ、全て意根によって発動します。意根が染まっていなければ智慧は生起せず、三昧境界も現れません。念仏三昧という禅定も、意識で念仏することで意根を染め、意根が自発的に念仏するようになります。定中で意識が疲労を感じ念仏を止めても、意根はすでに念仏に慣れ、言語や音声なく続けます。独頭意識のみがこれを聞くことができます。意根は意識の意思に関わらず自ら念仏し、意識が制御しようとしても不可能な状態、これが念仏三昧です。
念仏三昧の境界にある時、行住坐臥どのような動作中にも念仏の声が耳元に聞こえるように感じます。実際は心の中に現れる音声のない意念です。この念仏声は意識のものではなく、意識が念じたくなくても聞こえ続けます。これは意根が念仏し、如来蔵がこれに応じて念仏の声を現すためで、意識の制御を超えています。意根に言語文字はありませんが、独頭意識が念仏声を了別し、聴きたくなくても聴き続けなければなりません。
我見を断じて証果を得る時、法眼浄の三昧境界が現れます。ここには未到地定と苦空無常無我の無生智慧が含まれます。この智慧は誰が現すのか。意根が現すのです。意識が日常的に観行して意根を染め、意根が四聖諦の理を思量し、最終的に五蘊の苦空無常無我を証得すると、法眼浄の三昧境界が現れます。禅定中に意根が如理の結果を思量し、智慧が生じます。この三昧は意根が現し、独頭意識が現量了別するため、あらゆる実証法は意根と意識の現量証です。意根が現量と相応し、比量や非量は存在せず、意根が能動的に現す法のみが現量と三昧となります。
意根が我見を断じ証果を得て三昧境界にある時、覚明の現象が現れます。三昧がなければ覚明は現れません。覚明現象は意根が未知の境界に触証し、興奮と歓喜が引き起こすもので、意識では発現しません。覚明が現れるのは禅定三昧状態の時で、禅定がなければ覚明もありません。三昧中は煩悩が極めて微弱で、ほぼ現起せず、身心軽安、覚受殊勝、睡眠減少となります。禅定中は気血が円滑に巡り、精気満ち欲望も鎮まり、睡眠は極めて浅く、睡眠蓋がなくなり、一日三四時間の睡眠で足ります。これら全て意根の現す三昧境界です。
明心も同様で、意根が本心を証得すると三昧状態に入り、行住坐臥全てが定中となります。般若智慧が生起し、煩悩は極めて微弱、覚明も現前し、身心は軽安で快適自在、睡眠も極めて少なく、神気満ちて眠りを求めず、心境愉悦、この状態全てが三昧境界に属します。
真如三昧という境地も証得時は同様です。真如三昧は無生法忍の智慧境界、つまり道種智・唯識種智に属し、悟り初めの者が証得できるものではなく、初地に入って初めて証得できます。真如三昧とは、一切法の真如性と唯識性を証得することです。一切法に本心の働きを見出し、一切法が真如の性質であると知る時、初地に入ります。法無我を分証し、無生法忍を分証し、一真法界を分証し、大乗の解脱を分証する。これを分証即仏と呼び、この時に初めて真如三昧を得ます。初地以前には一切法の真如性を証得できず、唯識種智がなければ一切法の真如を見ることはできません。真如三昧の智慧は極めて深細で、これ以前には無生忍の般若智のみあり、唯識智はありません。無生忍の智慧は真如三昧の智慧に比べれば浅はかなものです。
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