法身とは『大涅槃経』において仏が説かれた真常・真我・真楽・真浄のことであり、空無所有を指す名相概念ではありません。その他の一切の法はただ相と名に過ぎず、衆生の覚知心が分別する六塵の相です。仏地の大円鏡智・無垢識こそが仏法身です。法身は一切の相を現じ、一切の相を生じます。報身仏・応化身仏はすなわち法身仏より生じたものであり、法身なくして一切は存在し得ません。衆生の如来蔵を方便的に法身と称しますが、この法身は未だ究竟ならず、七識心の染汚種子である無明業種を蔵しています。これらの種子はなお生滅変異を繰り返し、無明の種子が悉く消尽された時、如来蔵にはもはや生滅性の種子が存在せず、この時如来蔵は永遠に不変となり、名を改めて無垢識大円鏡智と称されます。これこそ真実の法身であり、常楽我浄の真実の功徳を具え、真常・真我・真楽・真浄を体現するものです。
仏地の如来蔵は真常であり、断滅することなく無常性もありません。無常は常にあらず、常は無常にあらず、二つの体性は同時に存在できず、ただ一つしか存在しません。恰も死は生にあらず、生は死にあらざるが如く、二者は同時に存在できず、同時存在は論理に悖ります。仏地の常は絶対対待を離れ、ある物より来たるのでもなく、また無常法を以てその常恒性を顕現・対比させる必要もありません。常性は法爾として存在するものであり、世俗の論理推論はここに全く用をなさず、情解意解を以て理解し得るものではありません。
衆生は常に推理分析や種々の心識活動を以て仏法を思惟しようとします。しかし常楽我浄は絶対真理であり、思惟を絶し、分析を絶し、対待を絶し、情知意解を絶したものです。常楽我浄は世俗法ではなく、世俗の論理思惟推論を以てその真実存在を比量し得るものではありません。世間の断滅法は真常と対立対比できず、世間の苦は真楽と対立対比できず、世間の五陰は真我と対立対比できず、世間の不浄は真浄と対立対比できません。対立対比は戯論法に過ぎず、実義なく、常楽我浄は真実・永恒・不変なるものです。
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