衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年05月21日    月曜日     第3開示 合計523開示

色身と法身の関係

色身と法身の関係について、色身は法身によって生じられ保持されるものであり、色身は法身を離れて存在することはできません。法身が存在する時、色身には寿命があり、温もりがあり、識心があります。法身が存在しなければ、それは死人あるいは単なる木片に等しいのです。法身が顕現し作用を及ぼすには、必ず色身の五陰を依りどころとしなければなりません。色身の五陰を離れれば、法身は顕現できず、また五陰を離れて法身を見出すこともできません。しかし法身自体は依然として存在し続けます。つまり法身の存在は外縁に依存せず、単独で存在し得るのです。

法身が単独で存在する状態とは、阿羅漢が無余涅槃に入り、五陰を全て滅し、意根も滅した時です。この時残るのは法身如来蔵のみであり、それ自体が単独で存在します。この状態においては、仏でさえ阿羅漢を見出すことができません。阿羅漢の五陰が存在せず、もはや阿羅漢という人そのものが存在しないからです。仏も阿羅漢の法身如来蔵を見出すことはできません。法身は形も相もなく、見出す術がないのです。よって如来蔵を求めようとするならば、必ず五陰の活動運行の中に求め、生滅する法の中に不滅の法身である如来蔵を求め、身口意の行いの中に如来蔵を求めなければなりません。これが参禅の方向性です。

法身は常住です。六塵の境界においては無知無覚ですが、六塵を超えた法の中では依然として知覚を有しています。法身は衆生の業種と業縁を知り、縁が具足すれば衆生の業種に基づいて五陰身を生じさせます。人間を造る業があれば胎内に人の形体を現じ、男性を造る業があれば男性の形体を現じ、女性を造る業があれば女性の形体を現じます。色身不具の業があれば六根不全の形体を現じ、畜生の業があれば畜生の形体を現じ、天人の業があれば中陰身を経ず、直接天人の形体を現じます。法身は決して勝手に衆生の五陰身や生存環境を造ることなく、全て衆生の業種に従って行われるのです。

法身は覚知を有し、七識が何をなそうとするかを知ります。その後、七識の識種を送り届け、七識を運転させると同時に、七識の運転に協調して五陰の作用を成就させます。その知覚する範囲は極めて広大で、例えば面識のない二人が会った時、業種を送り届けて双方あるいは一方に縁を感知させ、親近感や憎悪を覚えさせます。衆生が母胎内で色身が成熟すると、これを覚知して業風を吹かせ胎児を出胎させます。衆生の寿命が尽きる時も知り、臨終の者からいつ離れるべきかも知っているのです。

法身はこのように数多くの知覚を有しています。故に法身の本体は真実の存在ですが、衆生は肉眼で見ることも耳で聞くこともできず、智慧の眼によってのみ覚知できるのです。智慧を具えていない時は、これを尋ね求めることも証得することもできません。法身というものは世俗のものではなく、色声香味触法の六塵相を有しません。しかしこれは出世間法であり、法である以上は法的な機能作用を有します。機能作用があれば、何もないわけではありません。法身には独自の存在様式があり、三界の法のような存在様式ではありません。理解し難いことではありますが、これ以上に説明を加えることは困難です。まさに「ものではないもの」、真に理解し認知し難い存在なのです。

——生如法師の開示
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