色身と法身の関係において、色身は法身によって生じられ、保持されている。色身は法身を離れて存在することはできず、法身が存在する限り、色身には寿命があり、温もりがあり、識心がある。法身が存在しなければ、それは死人あるいは単なる木片に等しい。法身が顕現し作用を及ぼすには、必ず色身の五陰を依りどころとしなければならない。色身の五陰を離れれば、法身は顕現できず、また五陰を離れて法身を見出すこともできない。ただし法身自体は依然として存在し続ける。つまり法身の存在は外縁に依存せず、単独で存在し得るのである。
法身が単独で存在する状態とは、阿羅漢が無余涅槃に入り、五陰を全て滅尽し、意根も滅した時を指す。この時、法身如来蔵のみが単独で存在する。この状態においては、仏でさえ阿羅漢を見出すことはできない。阿羅漢の五陰が存在せず、もはや阿羅漢という存在そのものが無いからである。仏もまた阿羅漢の法身如来蔵を見出すことは叶わない。法身は形も相もなく、見出す術がないためである。故に如来蔵を求めようとするならば、五陰の活動運行の中に、生滅する法の中に不滅の法身——如来蔵を探さねばならない。身口意の行いの中に如来蔵を求めることが、参禅の方向性なのである。
法身は常住である。六塵の境界においては無知無覚であるが、六塵を離れた法の中では依然として知覚を有する。衆生の業種と業縁を知り、縁が具足すれば衆生の業種に従って五陰身を生じさせる。人間を造る業があれば胎内に人の形体を現じ、男性を造る業があれば男性の形体を現じ、女性を造る業があれば女性の形体を現じる。色身不具の業があれば六根不全の形体を現じ、畜生の業があれば畜生の形体を現じ、天人の業があれば中陰身を経ず、直接天人の形体を現じる。決して妄りに衆生の五陰身や生存環境を造ることなく、全ては衆生の業種に依拠している。
法身は覚知を有し、七識が何を為そうとするかを知る。その後、七識の識種を送り出して七識を運転させると同時に、七識の運転に配合して五陰の作用を成就させる。その知覚する範囲は極めて広大である。例えば面識のない二人が会った時、業種を送り出して双方あるいは一方に縁を感知させ、親近感あるいは憎悪を覚えさせる。衆生が母胎内で色身が成熟した時、それを覚知して業風を吹かせ、胎児を出胎させる。衆生の寿命が尽きんとする時も知り、臨終の人身から離れるべき時機も知っている。
法身はこのように数多くの知覚を具えている故に、その体は真実有である。しかし衆生は肉眼で見ることも耳で聞くこともできず、智慧の眼によってのみ覚知し得る。智慧を具えていない時は、これを尋ね求める術もなく、証得することもできない。法身というものは世俗の事物ではなく、色声香味触法の六塵相を有しない。しかしこれは出世間法である。法である以上、法としての機能作用を有し、機能作用がある以上、無所有ではない。それ自体の存在様式を有しており、三界の法の存在様式とは異なる。理解し難いながらも、ここまで述べるに留め、これ以上に踏み込んだ説明は極めて困難である。まさに「ものならざるもの」、真に理解し認知し難き存在なのである。
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