仏の説く「常」とは、真実の有であり、真実の存在である。永遠に生滅せず、変異することなく、始めも終わりもなく、刹那も断滅することのないもの、それが真如無垢識である。外道の説く「神我」とは全く異なり、外道の神我は意識心であり、生滅変異の法である。意識の妄心を永遠不変の真我と認めることが、常見外道である。根本仏法はすべて如来蔵を出発点として一切の法を展開し、一切の法を出生させる。この如来蔵を離れて説かれる法は、常見か断見のいずれかであり、すべて外道の法である。永遠に変異しなくなった法が「常」であり、仏地の無垢識にはもはや七識の染汚種子が含まれておらず、種子が変異しなくなった時、無垢識は常となる。
現在私たちの如来蔵に含まれる七識心の染汚種子は絶えず変異を起こし、転換して固定されていない。そのため如来蔵を引きずり、如来蔵に含まれる種子が変異しない状態を維持できない。よって衆生の如来蔵は非常でもなく無常でもない。「天地に先んじて存在するもの、形なく寂寥とした本質」とは如来蔵を指す。如来蔵は真実に存在し、万物に先立ち、万物の主である。故に如来蔵を単なる名詞概念と言うべからず、単なる言葉上の施設と言うべからず、それには真実の機能体性があり、万法万物を出生させる実体である。形はないが。
1
+1