四念処観行日記:現在は浅い禅定に入るのが早く、坐中に「知」という意識を提起し、呼吸に従い、内面を照らし続ける...暫くすると、ぱちりと心が流れに入ったように感じ、瞬時に清浄となり、頭脳も明澄となる。
妄念を意図的に制する必要はない。色身・覚受・妄念は全て生滅幻化するものであり、空なる存在である。これらは束縛ではなく、ただ照らせば良いのである。対治する必要なく、自然に空となる。般若心経に「観自在菩薩は深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊皆空なりと照見し、一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち空、空は即ち色なり。受想行識もまた如是なり」とある。かつては暗誦するのみで実践せず、今修行する中で用いることで、幾分感覚を得たようだ。五蘊は障害ではなく、対処する必要なく、ただそれが生滅幻化するものと覚えておけば良い。只管に照らし、放任すれば、永く続ければ五蘊は自ずから空となる。色身と妄念は自然に空となる。これが現時点での私の理解である。
結跏趺坐は単なる形式である。椅子に座り、床に臥しながらも「知」を提起し内面を照らす方法も試みたが、浅い禅定に入ることができた。坐禅時、結跏趺坐・半跏趺坐・散座も全て可能で、要は心の用い方にある。方法が適切であれば、悟りに通じる。
評:心が静まらない時、心の対象は多岐にわたるが、我々には目標がある。呼吸を観じるのが主目標、唯一の課題と言える。主要事に専念してこそ任務を全うできる。呼吸以外の思念を追う必要はなく、それらは重要ではない。念頭は去来し留まらず、留めようもない。正事に専心すべきである。
心が呼吸のみを縁とする時、灯明が呼吸を照らす如く、周囲の身体感覚や雑念は心中から消え去り、空となる。呼吸においては従来気付かなかった現象、即ち真実を発見する。その真実の内容は各人の修行の中で自得するもので、発見は人それぞれだが、最終的には五蘊空・無我の証得という点で一致する。
観行は特定の姿勢に拘らず、行住坐臥全てにおいて実践すべきである。動静相俟って効果を増す。但し結跏趺坐には気血の巡りを促進し、色身を調和させ、心を静め、念を集中させる利点がある。その後身体を活動させれば気血の運行が充分に調整され、全身を巡り、身体に益をもたらし、心は更に清浄となる。
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