衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月22日    火曜日     第5 回の開示 合計530回の開示

仏地の無垢識と衆生の如来蔵

常楽我浄とは、仏地の真如心体たる無垢識を指す。無垢識そのものが涅槃心であり、涅槃心は必ずしも涅槃境界ではない。涅槃境界は涅槃後の阿羅漢や辟支仏の如来蔵が存在する境界に過ぎない。仏は涅槃境界に住まず、有余涅槃にも住さないが、仏の無垢識は純粋に涅槃の寂静状態にあり、不生不滅ではなく永遠に生滅せず、常恒の状態である。これが真実の涅槃境界である。故に常楽我浄とは無垢識本体の寂静清涼なる境界を指し、涅槃死後の空無の境界を指すものではない。

仏地の常楽我浄の真実境界は、小乗世俗諦における苦・空・無常・無我を完全に覆す。苦空無常無我とは世俗諦における五蘊十八界の法を指す。これらの法は衆生の如来蔵より生じたものであるため、生滅し無常であり、苦であり空である。故に無我なのである。

しかし仏地の無垢識は常に変異せず、薫染を受けず、その性質を変えず、真実の常であり無常ではない。所謂「常」とは心体の種子に生滅変異の現象が無いことを指す。衆生の如来蔵は未だ真実の常ではなく、心体に七識の染汚業種が潜み絶えず生滅変異し、種子は染汚から清浄へと不断に転換を続ける。ある衆生の如来蔵の種子は清浄性から再び染汚性へと薫染される場合もあり、如来蔵はこれらの善悪業種子の薫染を受け続ける。故に衆生の如来蔵は未だ常ではなく、無垢でもなく、不垢不浄なのである。

楽とは、仏地の無垢識が純粋に楽であり苦が無いことを指す。心体に悪業種子が存在せず、再び衆生の苦果を生じさせない。故に苦もなく、七識の苦受や苦果も無く、究竟寂滅楽の状態にある。

仏地無垢識は完全なる我性を具える。二十一の心所法を有し、五遍行・五別境、さらに善十一心所を具備する。意識や第七識と同様、前五識とも同じく、一切の法を了別し一切の法を変現する我の性質を有し、我の徳能と作用を具える。衆生の如来蔵には我性が無く、七識の累贅を受けるため五別境心所法も善十一も存在せず、ただ五遍行のみを有する。心所法が具足しないため我性を有しないのである。

浄とは、仏地の無垢識が清浄無染であり、無明の染汚が無く真実に清浄であることを指す。七識の染汚種子や無明を蔵さない。如来蔵に染汚業種が存在しなくなると、全てが清浄純粋で不変異の業種となり無垢識となる。故に無垢識は清浄で純粋である。衆生の如来蔵は純粋ではなく不垢不浄であり、心体に七識の染汚業種を有するため完全な清浄ではなく、不垢不浄と呼ばれるのである。

——生如法師の開示
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