法身徳とは、すなわち我々の清浄円満なる法身であり、一切の法を円満に成就し、無量の功徳を一身に具えるものである。般若徳とは、すなわち我々の真如性体が具える大智慧の境界であり、空にも非ず有にも非ず、即ち空即ち有、真空妙有にして空有を双具する。解脱徳とは、すなわち我々の心体本性が三界に滞ることなく、一法にも住せず、一法にも執せず、万像を生じながらも一像にも染まず、自ら清浄裸々として一物も掛けないことである。
法身徳はすなわち般若徳であり、般若徳はすなわち解脱徳であり、解脱徳はすなわち法身徳である。
さて問う:法身徳と般若徳・解脱徳は、一なるか、二なるか、三なるか。法身を離れて般若徳あらんや。般若を離れて解脱徳あらんや。法身は即ち般若、般若は即ち解脱、解脱は即ち法身、これが法身の理体にして、一切の法を具足し、一切の法と一ならず異ならざる所以である。
或る人々の説く解脱徳は、修行を経た後に五陰七識が具える後天的な生滅性の解脱徳である。私の説くところは、真心理体たる法身如来蔵が先天より本具する三界一切法に束縛されざる解脱徳であり、両者の差別は極めて大である。或る人々の説く般若徳は、七識が修行によって獲得する後天的な生滅性の般若徳である。私の説く般若徳は、自心如来蔵が先天より本具する出世間の大智慧たる般若徳であり、両者の差別は極めて大である。
或る人々の説く空仮中は、全て五陰七識が修行によって後天的に獲得する生滅性の空仮中である。真実の空仮中は、真心自性如来蔵が先天より本具する不生不滅の中道理体たる空仮中である。
一節の文字を披見すれば、直ちにその人の智慧の深浅を知り、法義の正真なるや否や、その深さを弁えることができ、これによって初めて法に依り人に依らざるを実践し得る。文字を解さねば、どうして法に依らん。ただ人に依るのみ。人に依る時は、某は某大師なり、某大師は誤りなき者なりと言わざるを得ず、世の人は皆名声に従い、既成の勢力を認め、その真実の智慧層位を弁える智慧を持たない。
我々が法に依り人に依らざるを志すならば、法を証得し大智慧を具えねばならず、それによって初めて法に依ることができる。最低限においても法を解するに至らねば、法に依ることは全く叶わない。真に法に依ることは、実に甚だ容易ならざる事柄である。今や口中で「法に依り人に依らず」と高唱する者ども多しといえども、そのほとんど九十九パーセントは人に依り、法に依ることを得ず。皆「某は大師なり、大師は必ず正しき者なり、大師の非を説くべからず、大師の説くところは全て受け入れるべし」と説くが、実のところ大師の説には誤謬少なからず、あるいは甚だ多く存在するかもしれない。いったい誰が智慧をもってこれを弁別し得ようか。況んや「分別すべからず」と叫ぶ者どもの多きこと、これこそ末法の世の無智なる衆生の憐れむべき所以である。
仏の色身は解脱色であり、解脱したるが故に色身の存在あり、この色身をもって衆生を利楽すること窮まりなし。色身の存在あるも解脱したる所以である。しかるに阿羅漢たちは解脱したれども色身なく、灰身泯智す。これ慈悲心薄きが故なり。阿羅漢たちは解脱したれども、ただ分段生死を了したるのみ。なお変易生死残り、無明残り、無数の所知障未だ断ぜず、随眠煩悩及び煩悩習気未だ断ぜず。故に阿羅漢の解脱は不徹底・不究竟なる所以である。
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