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日常法話

2018年05月23日    水曜日     第4開示 合計534開示

内法塵と外法塵の関係

問:如来蔵は実法のみを縁とするのでしょうか。つまり地水火風、十色五根五塵を指すのでしょうか。では、私たちが見る山の高低や木の大小は実法か仮法か、如来蔵はこれを縁とすることができるのでしょうか。もし縁としないなら、器世間の差異や物体の大小形状色相の差別は誰が造り出したのでしょうか。

答:実法とは外五塵、すなわち色声香味触の塵を指しますが、外法塵も含まれます。例えば色塵上の形色・表色・無表色などです。外面の山の高低や樹木の大小も実法であり、如来蔵もこれを縁とします。如来蔵が色法を生じる際、単に色塵の顕色(色彩)を生じるだけでなく、必ず同時に色塵の形色・表色・無表色などの法塵を生じなければなりません。そうでなければ色塵は完全な色塵ではなく、ただ色彩という一つの相貌だけが存在することになります。声塵・香塵・味塵・触塵も同様で、皆外法塵が存在します。

もし外法塵がなければ、色塵はただ顕色の色彩だけとなり、形色・表色・無表色が存在しなくなります。そうなれば形状・高低・大小・長短円方・厚薄がなく、品種種類の差別相も、美醜・巍峨・挺拔・気勢・年輪・軟硬などの表色・無表色も失われ、宇宙器世間の色塵はただ色彩の差別だけが残り、それ以外は模糊として混沌と区別がつかなくなります。

このような状態では業種も実現できず、如来蔵が万物を変現することも極めて単純化され、大千世界はただ色彩が煌めくだけで形質がなく、何の実用価値も持たなくなります。衆生が見るものもただ色彩の一片であり、長短円方・大小美醜の区別がなく、一切の色塵物質は使用不可能となり、衆生はこのような器世間に生存することもできなくなります。

実際には、如来蔵が色法を生じる際、四大種子を用いて様々な色法物質を完全に変現します。色彩・形状・姿態・品質・軟硬度などの内包を含めて生じるのです。そして衆生が色を見る時、如来蔵は外六根に依り、完全な色塵を勝義根に伝導します。法塵を含めて、意根が主導して色を見る時、眼識と意識が共同で完全な色塵を了別します。これが如来蔵が鏡のように像を現す原理であり、現れる像は外色塵と相似相同です。外法塵がなければ内法塵が現れることはあり得ません。

衆生の五陰色身も色法に属し実法です。一切の形象を含み、母胎内に存在する時から如来蔵が自ら縁とするものです。もし外法塵がなければ、人はただ色彩のみで四肢・頭顱・五根・性別・年齢・相貌・気質・高矮・胖痩・学識・教養などの形色・表色・無表色を失います。如来蔵が色身を生じる際、ただ顕色の色彩だけを生じるなら、全ての人は人と呼べる存在ではなく、何物か分からなくなります。全ての色塵も何であるか分からず、世界は混沌としてただ色彩だけが存在するでしょう。このような事態は存在し得ません。

故に、形色・表色・無表色などの法塵も実法であり、如来蔵はこれを生じ且つ縁とし、これに依って内法塵を変現します。衆生が了別するのは完全な色塵であり、全ての情報が具足して存在します。無から有を生じて後から変現した内法塵ではありません。他の幾塵も同様に外法塵を有し、外法塵に依って内法塵が存在します。内五塵に依って内法塵が生じるのではありません。

如来蔵は実法を勝義根に伝導して仮法と化し、意根がこれを縁とします。もし関心を持ち詳細に了別しようとしても自らは了別できず、如来蔵は根塵相触の処で六識を生じて了別させます。眼根が内色塵と接触する時、如来蔵はその中で眼識を生じます。耳根が声塵と接触すれば耳識を生じ、鼻根が香塵と接触すれば鼻識を生じ、舌根が味塵と接触すれば舌識を生じ、身根が触塵と接触すれば身識を生じ、意根が法塵と接触すれば意識を生じます。六識は現行して内六塵を了別するのです。

——生如法師の開示
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