衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月23日    水曜日     第5 回の開示 合計535回の開示

末法の世における衆生の哀れなところ

法身徳とは、我々の清浄円満なる法身が一切の法を円満成就し、無量の功徳を一身に具えることを指す。般若徳とは、我々の真如の性体が具える大智慧の境界であり、空にも有にも偏らず、空即ち有、有即ち空という真空妙有の境地で、空有を双具する。解脱徳とは、我々の心体の本性が三界に障碍されず、一法にも住せず、一法にも執着せず、万像を生じながらも一像にも染まらず、自ら清浩裸々として一物も掛けない状態をいう。

法身徳は即ち般若徳であり、般若徳は即ち解脱徳であり、解脱徳は即ち法身徳である。

問う:法身徳と般若徳・解脱徳は一なるか、二なるか、三なるか。法身を離れて般若徳はあるか。般若を離れて解脱徳はあるか。法身即ち般若、般若即ち解脱、解脱即ち法身、これが法身の理体であり、一切の法を具足し、一切の法と一ならず異ならざる所以である。

或る人々の説く解脱徳は、修行を経た後に五蘊七識が具える後天的な生滅性の解脱徳である。私の説くところは、真如理体たる法身如来蔵が先天より本具する、三界一切の法に束縛されない解脱徳であり、両者の差異は甚だ大きい。或る人々の説く般若徳は、七識が修行によって獲得する後天的な生滅性の般若徳である。私の説く般若徳は、自心如来蔵が先天より本具する出世間の大智慧般若徳であり、両者の差別は極めて大きい。

或る人々の説く空仮中は、全て五蘊七識が修行を通じて後天的に獲得する生滅性の空仮中である。真実の空仮中とは、真如自性如来蔵が先天より本具する不生不滅の中道理体たる空仮中である。

一節の文字を提示すれば、その人の智慧の深浅が分かり、法義の正邪真偽が判明し、深さが測れる。これこそが法に依り人に依らざる所以である。文字が分からなければ、どうして法に依ることができようか。ただ人に依るしかない。人に依る時は、某が某大師であると言い、某大師は誤りないと説き、世間の人は皆、名声のみを認め、既成の勢力を認めて、その真実の智慧層を判断する智慧を持たない。

我々が法に依り人に依らんと欲するならば、法を証得し大智慧を具えなければならない。最低限においても法を理解して初めて法に依ることができる。法が分からなければ、到底法に依ることはできず、真に法に依ることは実に容易ならざることである。今どれほどの人が口では「法に依り人に依らず」と唱えつつ、実に九十九パーセントの者は人に依り、法に依ることができない。皆が「某は大師である、大師は正しいに違いない、大師の誤りを指摘してはならない、大師の教えは全て受け入れるべきだ」と言うが、実際には大師の説く所に誤り少なからず、或いは甚だ多く存在するかもしれない。誰がこれを弁別する智慧を持ち得ようか。況んや、どれほどの人が「分別するな」と叫びつつ、これこそ末法の世の無智なる衆生の哀れむべき所以である。

仏の色身は解脱色であり、解脱しながらも色身を存在せしめ、この色身をもって衆生を利楽すること窮まりなし。色身は存在するも解脱している。一方、阿羅漢たちは解脱しながらも色身を持たず、灰身泯智する。慈悲心が薄い故である。阿羅漢たちは解脱しても、ただ分段生死を了えたのみで、なお変易生死が残り、無明が残り、無数の所知障が断たれず、随眠煩悩及び煩悩習気が断たれていない。故に阿羅漢の解脱は不徹底・不究竟なのである。

——生如法師の開示
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