衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年05月24日    木曜日     第2開示 合計538開示

阿羅漢、縁覚、菩薩の違い

推理は必ずしも証得ではない。例えば、縁覚が十二因縁あるいは十因縁を推究して阿頼耶識に至っても、第八識を発見し証得することはなく、阿頼耶識を実証した者ではない。阿頼耶識を実証する者は大乗の菩薩であり、これが大乗の見道である。必ず大乗の善根福德因縁と発心を具えていなければならず、どれ一つ欠けることもない。もし外道や小乗にも大乗菩薩の発心があるというなら、それは必ず大乗菩薩である。菩薩がどの法を学ぶにせよ、すべて大乗を中心とし、衆生を度し仏道を成じるためであるからだ。菩薩の願いを発さなければ、その行いと結果は必ず菩薩ではなく、見道することもできず、菩薩の果徳を持つこともできない。そうでなければ、外道の心を発しても成仏できることになる。仏が衆生に必ず大いなる心と願いを発し、自利利他の菩薩の清浄な大願を起こして仏道の修証過程を完成させ、円満に成仏すべきことを強調する必要はないのである。

縁覚が生死の源を阿頼耶識に推究したとしても、結局は涅槃に入って滅度に向かい、畢竟菩薩の大道を行じて衆生を利楽することはない。この点が縁覚が菩薩ではなく、阿頼耶識を実証していないことの十分な証拠である。種子が正しからず、根が正しくなければ、どうして正しい果を得られようか。あたかもある人々が、悟る前に一切の法を第八識に帰し、その源はすべて第八識にあり、その本性はすべて仏性であると考えるようなものである。このような見解を保持していても、畢竟理解と推理、想像に過ぎず、第八識を実証したわけではないから、明心の菩薩には属さない。

禅宗に「万法一に帰す、一は何処に帰す」という公案がある。無数の人々がこの「一」とは如来蔵であり、万法はすべて如来蔵に帰し、如来蔵から来ると推測している。しかしそれでもなお、大乗の見道には属さず、参を破ったわけでもなく、真実義の菩薩ではない。依然として如来蔵を証得しておらず、「一が何処に帰す」かを知らないからである。何処にあるか知らず、如来蔵の在処を見出していなければ、依然として無明の中にあり、証悟までどれほど道程があるかわからない。相似の法は畢竟相似の法であり、真実の法に代わることはできず、真実の法の功徳を受用することはできない。食事の話をしても腹は満たされないのである。

ある者が阿羅漢と縁覚はともに第八識阿頼耶識を実証したと言うなら、それなら皆を菩薩と呼べばよいではないか。どうしてまた阿羅漢や縁覚と呼ぶ必要があろう。仏法を小乗の四聖諦、中乗の十二因縁、大乗の菩薩六度に分ける必要もなく、すべてを菩薩法と呼び、明心見性と成仏を根本目的とすればよいはずである。実際には全くそうではなく、その区別は極めて大きい。

——生如法師の開示
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