衆生の意根は必ず業種と相応じ、地獄に至れば、意根は地獄の衆生の習気を現じます。餓鬼道に堕ちれば、衆生は必ず餓鬼の習気を現じます。畜生道に至れば、衆生は必ず畜生の習気を現じます。人間道にあれば人の習気を具え、天人は天人の習気を具え、阿修羅は阿修羅の習気を具えます。菩薩には菩薩の習気があり、菩薩が劫を経て衆生を教化すれば、必ず衆生教化の習気を具えます。菩薩のこの習気は当然善き習気であり、衆生が菩薩の習気と相応ずれば、即ち菩薩となるのです。
もし前世において某道に長く生存せしめば、某道の衆生の習気を具え、他の道に至るも、意根は相応じて元の習気を現じます。例えば仏の大弟子憍梵波提は四果の阿羅漢でありましたが、前世五百世にわたり牛であったため、反芻の習気を具え、人間として阿羅漢となっても、食事の際には牛が草を噛む様に見えました。或る者は餓鬼の習気を具え、前世に餓鬼であった期間が長く、或る者は阿修羅の闘争を好む習気を具え、前世に阿修羅であった期間が長く、瞋心と瞋習が極めて堅固であったため、菩薩となってもなお幾らか阿修羅の瞋習を現じ得るのです。
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