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日常法話

2018年05月24日    木曜日     第3開示 合計539開示

内法塵は外法塵の影像です

問:物質の形色、例えば高低・大小・姿態などは、外界に既に存在するものか、それとも勝義根において初めて現れるものか。

答:如来蔵は一切の法を如実に顕現する。外界に存在しないものを、如来蔵がどうしてそれに依って内法を顕現できようか。外界の五境(色・声・香・味・触)には、ほぼ一定量の四大(地・水・火・風)が存在し、絶えず四大の微粒子を放射している。各色法の四大微粒子は異なり、これらが無秩序に堆積しているはずはなく、その配列は必ず秩序正しく規則的である。故に形状が生じ、形色という法塵が存在する。同様に表色という法塵も必要であり、無表色という法塵も存在する場合がある。従って法塵は勝義根の外に既に存在しており、如来蔵が四大を用いて生じさせた色法塵であり、実法である。外界に元々存在するものを、如来蔵が再びそれに依って内色塵を顕現し、六識がそれを縁として初めて了別できるのである。

如来蔵が万法を顕現する様は、鏡が像を映す如し。外境と全く同じ影像、あるいは類似した影像を顕現する。「全く同じ」と「類似」とは何を意味するか。例えば我々が見る人物は、自心の影像であって外界の実体そのものではなく、本体の姿ではないが、本人と一致し全く同じか、あるいは似ているべきである。我々が見る勝義根内の影は、自らの如来蔵が外界の実在者を如実に顕現したものである。外界の実在者に大小・高低・長短・方円・肥痩などがあるかどうか。確かに存在する。それは母胎において彼の如来蔵が生じたもので、四肢・頭足・軽重・高低大小などの法塵を含む。他人がこの者を見る時、他人の如来蔵はこの者の原貌に依り、自らの勝義根内に全く同じか類似の内六塵影像を顕現する。他人は同時にこの者の色彩、肥痩・大小・五根の形状、性格・気質などの法塵相を見るのである。

故に、如来蔵が自らの五陰身を顕現する際、同時に自らの肥痩・形状・重量をも顕現する。他人が見る時、如来蔵はそれに依って他人の心中に全く同じ影像を顕現し、他人は初めてこの者の大小・肥痩・重量を如実に了別できるのである。

潜水艦の潜望鏡や戦車の屈折鏡に映る像は、実景と人物が寸分違わず再現される。これは如来蔵の鏡像原理と同じであり、仏説の鏡像観がこれに当たる。もし眼根に問題があれば、如来蔵が収集する情報が眼根通過時に変形し、勝義根に至る情報も変形するため、如来蔵が示す鏡像も変形する。眼識と意識が認識するものも歪み、色彩や形状の失真が生じる。業力が同じで五根が健全という条件を除けば、如来蔵が顕現する鏡像は実物と全く同一である。

我々は自らの色身をもって推論できる。如来蔵が四肢や頭部の形状という形色外法塵を顕現していないとすれば、如何なる根拠で衆生は自らに頭部や四肢があると知り、内法塵の頭足・四肢・五根・肥痩を見ることができるのか。如何にして身根の様々な作用を有し得ようか。これらの内法塵は無から生じるものではなく、依る物なくして現れるものではない。必ず如来蔵が母胎内で衆生の頭部・四肢などの形色・表色・無表色を生じさせたのである。他の物質色法も同様に、最初の形成時に必ず形色・表色・無表色の外法塵を有していた。

——生如法師の開示
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