問:物質の形色、例えば高低・大小・姿態などは、外界に既に存在するのか、それとも勝義根において初めて現れるのか。
答:如来蔵は一切の法を如実に顕現する。外界に存在しないものを、如来蔵がどうしてそれに依って内法を顕現できようか。外界の五塵(色・声・香・味・触)には、ほぼ一定量の四大(地・水・火・風)が存在し、絶えず四大の微粒子を放射している。各色法の四大微粒子は異なり、これらが無秩序に堆積しているはずがなく、その配列は必ず秩序正しく規則的である。故に形状が存在し、形色という法塵が生じる。同様に表色という法塵も生じ、無表色という法塵も存在する場合がある。よって法塵は勝義根の外に既に存在しており、如来蔵が四大を用いて生じさせた色法塵であり、実法である。これは外界に元々存在するもので、如来蔵が再びそれに依って内色塵を顕現し、六識がそれを縁として初めて了別するのである。
如来蔵が万法を顕現する様は、鏡が像を映すのと同様で、外界と全く同じ影像、あるいは類似した影像を顕現する。全く同じであることと類似していることの意味は何か。例えば我々が見る人物は、自心の影像であって外界の実体そのものではなく、本体の姿ではないが、当人とは一致し、全く同じか類似している。我々が見る勝義根内の影は、自らの如来蔵が外界の実在人物に基づいて如実に顕現したものである。外界の実在人物は如来蔵のみが接触し得るが、その実在人物に大小・高低・長短・方円・肥痩などの属性は存在するか。必ず存在する。母胎において彼の如来蔵が生じたもので、四肢・頭足・軽重・高低大小などの法塵を含む。他者がこの人物を見る時、他者の如来蔵はこの人物の原貌に依り、自らの勝義根内に全く同じか類似した内六塵影像を顕現する。他者は同時にこの人物の色彩、肥痩・大小・五根の形状・性格・気質などの法塵相を見るのである。
故に、如来蔵が自らの五陰身を顕現する際、同時に自らの肥痩・形状・重量も顕現する。他者が見る時、如来蔵はそれに依って他者心中に全く同じ影像を顕現し、他者は初めてこの人物の大小・肥痩・重量を如実に了別できるのである。
潜水艦の潜望鏡や戦車の屈折鏡に映る像は、実景や人物と全く同じで寸分違わない。これは如来蔵の鏡像原理と同じであり、仏説の鏡像観がこれである。もし眼根に問題があれば、如来蔵が収集した情報が眼根通過時に変形し、勝義根に至る情報も変形するため、如来蔵が示す鏡像も変形する。眼識と意識が認識するものも歪み、色彩や形状の失真相となる可能性がある。業力が同一で五根が健全という条件を除けば、如来蔵が顕現する鏡像は実物と必ず全く同一である。
我々は自らの色身をもって推論できる。如来蔵が我々に四肢や頭部の形状という形色外法塵を顕現していないなら、どうして各衆生が自らに頭と四肢があることを知り、内法塵の頭足・四肢・五根・肥瘦を認識できようか。どうして身根の様々な作用を有し得ようか。これらの内法塵は無から生じるはずがなく、物に依らずに現れるはずがない。必ず如来蔵が母胎内で衆生の頭部・四肢などの形色・表色・無表色を生じたのである。他の物質色法も同様に、最初の形成時に必ず形色・表色・無表色の外法塵が存在した。
3
+1