問:六祖が「風が動くのでもなく、幡が動くのでもなく、心が動くのだ」と言った公案において、この「心が動く」という心は、どの識を指しているのでしょうか。
答:もし第七識が動かなければ、風幡の境界は心中に現れません。意根が風幡に縁取らなければ、眼識と意識による風幡の了別も生じません。したがって第七識は動くものと言えます。了別性があり、知覚があり、知覚の結果があるからこそ、動きという結果が生じるのです。
内面の風幡の動きは、第七識の心外にある本質境に由来します。外界の風幡も刹那刹那に生滅しており、如来蔵は絶えず風幡の影像を勝義根に伝達しています。つまり如来蔵は不断に風幡を生じ顕現させており、常に動いて顕現し続けているのです。しかしこの動きは仮の相であり、如来蔵自体は決してこれによって心を動かすことはなく、一切の念を起こすこともありません。この観点から、如来蔵は「動いても動かない」と言えるのです。
外界の風幡も実は動いてはいません。風幡は物質であり、生滅法だからです。四大の種子が刹那刹那に四大の微粒子を放出し、風幡は刹那刹那に生滅変化しています。全ての物質色法には自体的な性質がなく、故に物は自ら動かず、如来蔵によって相似の動きの相が現れるのです。本質的に言えば、一切法の出現はやはり如来蔵の動きの結果です。しかし如来蔵は形も相もなく、動きもまた動かざるものであり、どこを探してもその動く相を見出すことはできません。
意根が動くために、如来蔵はこれに随って意根の求める法を現じざるを得ず、如来蔵の有為性・動性が顕現します。如来蔵は永遠に無我無私であり、全心全霊をかけて意根に奉仕し、衆生に奉仕するのです。
3
+1