衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年05月26日    土曜日     第2開示 合計543開示

内六境と外六境の関係

外五塵上の法塵は存在するのでしょうか。もし外法塵が存在しないならば、意根が縁とするものは何でしょうか。

五塵上の法塵は、法処所摂色とも呼ばれ、意根と意識が了別する内容です。色塵においては、顕色(眼識が了別する内色塵)と、形色・表色・無表色(意識が了別する内法塵)に分かれます。形色とは長短方円大小厚薄を指しますが、もし内法塵にこのような形色があるなら、それはどのように現れ、どこから来るのでしょうか。外形色がなければ、内形色は存在し得るのでしょうか。表色と無表色も同様です。

例えば机の形状は形色であり、意識が認識するのは内形色です。もし外形色がなければ、内形色も存在し得ません。人工的に机を作る際、必ず机の形色を形成しなければなりません。本質境の机には必ず長短方円の形状が必要です。もし本質境の机に形状がなければ、工人たちはどのような机を作っているのでしょうか。各メーカーが作る机に違いがなくなり、さらに他の物質色法とも区別がつかなくなります。なぜならこれら全てのものには色彩としての顕色しか存在せず、硬度や柔軟性、質量などの情報が欠如しているからです。そうなれば如来蔵は、本質境の机に基づいて、鏡が像を映すように勝義根の中に寸分違わぬ机をどのように幻化するのでしょうか。

一切の物質色法が形成される際には必ず形質を具え、互いに区別を示して自らの本有の特色を顕現します。そうでなければ物質同士に差異が生じません。例えば衆生が母胎内にいる時、如来蔵は必ず色身の四肢形状、身体の大小肥痩、肉質の表色、そして健康状態や愛嬌の有無などの無表色を生じさせます。母胎を出た後も、各衆生は四肢・頭脚・身長・体格などの形色、及び表色と無表色を具え続けます。四肢等の形色は他者にとって外形色であり、他者が認識するのは内形色です。もし衆生自体に四肢の形状がなければ、他者は衆生の四肢等の形色を認識できず、健康状態や活発さ、性格気質などの表色・無表色も知ることができません。

如来蔵は鏡が像を映すように如実に現象を顕現します。内色塵と外色塵は寸分違わず、内声塵と外声塵も同様です。これが一致しなければ、鏡像の如き現れとは言えません(業力による要因を除く)。譬えば人が鏡の前に立てば、鏡は本人と全く同じ影を映し出します。鏡は無心であるが故に一切の加工を行いません。従って、一切の物質色法には外法塵が存在し、音声・味塵・香塵・触塵にも形色と表色の外法塵を具えます。また、外色が網膜に倒像を形成するように、樹木が河面に影を映すように、色塵には正倒邪・上下左右・内外の形状が存在します。これこそ色塵が形色を具える証左であり、形色が存在する故に外法塵が生じ、意根を経て勝義根に伝達され、意識による了別を可能にするのです。

——生如法師の開示
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