衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年05月26日    土曜日     第1開示 合計542開示

風動く? 幡動く? 心動く?

問:六祖が「風が動くのでもなく、幡が動くのでもない。心が動くのである」と説いた公案において、この「心が動く」という心は、どの識を指すのでしょうか。

答:もし第七識が動かなければ、風幡の境界が心中に現れることはありません。意根が風幡に縁取らなければ、眼識と意識による風幡の了別も生じません。したがって、第七識は動くものであり、了別性を有し、知覚作用を持ち、知覚の結果が生じるからこそ、動きという結果が現れるのです。

内面の風幡の動きは、第七識の心外にある本質境に依拠しています。外界の風幡も刹那刹那に生滅を続けており、如来蔵は絶え間なく風幡の影像を勝義根に伝達しています。つまり如来蔵は不断に風幡を出生し顕現しており、常に動いて現象を現出させているのです。しかしこの動きは仮の相に過ぎず、如来蔵自体は決してこれによって心を動かすことがなく、一切の念を起こすこともありません。この観点から、如来蔵は「動いても動かない」存在と言えます。

外界の風幡も実は動いてはいません。風幡は物質であり、生滅法である四大種子が刹那刹那に四大微粒子を放出するため、風幡は刹那ごとに生滅変化しているのです。全ての物質色法は自体性を持たないため、物自体は動かず、如来蔵によって相似の動きの相が現れます。本質的に言えば、一切法の出現は如来蔵の動きの結果です。しかし如来蔵は形も相もなく、動きもまた不動であり、どこを探してもその動く相を見出すことはできません。

意根が動くため、如来蔵はこれに随って意根が必要とする法を現起せざるを得ず、如来蔵の有為性と動性が顕現します。如来蔵は永遠に無我無私であり、全心全霊をかけて意根に奉仕し、衆生に奉仕するのです。

——生如法師の開示
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如来蔵による一切法の変現と執持

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