如本:今朝、坐禅を始め、しばらく呼吸を調えていたが、息が滞りがちで集中できなかった。その後、ゆっくりと般若心経を默誦すると、止観の状態に入り、心が次第に安定してきた。次に出入息を観じようとしたが、脚の痺れや脹れを感じると、心の焦燥感が湧き上がりそうになり、雑念が生じかけたため、出入息観を止めて再び般若心経を默誦した。すると再び止観の状態に入り、心が落ち着いた。
坐禅を下りて用を足す時、この身体は「流動する」ものだと感じた。不変の身体相など存在しない。食事中、向かい側に座る家族を見ると、目・耳・鼻・舌と五臓六腑が骨組みに組み合わさった仮の存在に過ぎないと悟った。しかし彼女は自分がそのような仮の存在だと気づいていない。この感覚を伝えることはできず、彼女を不機嫌にさせるのを恐れた。茶碗に盛られた四大で構成された米と野菜を見つめると、これらが体内に入って身体の一部となる過程に思い至った。物質的身体と物質的な米飯に違いはなく、共に四大の組み合わせに過ぎない。ベランダの花が土と水を吸収して様々な植物に成長するのと同様だと感じた。
なぜ花を自分だと思わないのか?なぜ四大で構成された色身を「我」と執着するのか?なぜ人々の身体はそれぞれ異なる形状をしているのか?私の心識とどう関係しているのか?ここまで考えて思考を止めた。過去に学んだ知識を当てはめて分析するのは避け、この問題を意根に委ねて思量させるべきだと悟った。絶えず観察し、尋ね求め、咀嚼することで「意~~思」が生まれ、疑念を抱くことで深く探求する欲求が湧く。
今日外出した際、道行く人々の姿や動作、話し声を見聞きすると、これらも動く仮の存在に過ぎないと感じた。しかし彼らは自分が仮の存在だと気づいていない。知人に挨拶する時、相手の額を見つめると、その下には白骨があり、内部は皆同じものが詰まっていると想起した。何の意味も感じられなかった。他人の話し声は、気流と物質的な唇・舌・喉・気管の衝突音に過ぎず、人が太鼓や鐘を鳴らすのと大差ないと悟った。日常で論じる正誤・是非・美醜などは全て無意味に思えた。言葉を発する気が起きず、呼吸に安住した。(日誌終了)
以上が四念処修行の過程である。この観行が次第に深化し広がり、生活の隅々に浸透していく。朝から晩、睡眠に至るまで無間断に続くことで、心が世俗相から離れ、徐々に空虚になっていく。凡夫の骨を換え、胎殻を脱ぎ捨てるように、不断に修行を続ければ、いずれ龍門を跳び越え、鯉が龍となる日が来る。
観行が日常生活の全領域に拡大し無間断となった時、それは初歩の三昧境地である。この三昧には禅定と智慧が含まれるが、未だ不完全で究竟ではない。完全で究竟な三昧とは悟道時の三昧、法眼浄の三昧、三縛結を断じた三昧、三悪道に入らない三昧である。このような観行は単なる過程に過ぎず、身心が変容する道程だ。この過程で五根・四正勤・四如意足・七覚分・八正道・四念処が次第に具足し、証道の条件が整えば我見を断じて証道位に入り、法眼浄を得る。
これを実修と呼ぶ。生活の隅々に実践し、内心の念い一つひとつ、行い一つひとつ、節操一つひとつに至るまで厳格に実践する。仏陀が説いた修行過程と必要条件の全てに忠実に、焦らず怠らず、煩悩が起きず心念が止息するまで実践する。ただし止息するのは意識の心念であり、意根の法に対する思量は絶え間なく続き、心と心が無間断につながる。
故に最終的に見道するのは必ず意根による見道証道である。証果後も心念は無間断に続き、転換した心行・心所法も途切れなく連続する。五品の粗重な煩悩も無間断に滅却され、聖人と凡夫を行き来するようなことはない。意識で意根を牽制し、空・無我の認知に戻す必要はない。
これに対し意識による証果は逆である。意識が清明な時は善人でも、境界が現れると意根が煩悩に従って染汚意を現じ、六識が無明に従って染汚業を造作する。後で意識が不適切と感じ、意根を督励して煩悩を抑制しようとするが、既に煩悩は起こり過ちは犯され、悪業は形成され、種子は残された。未来はどうなるのか?貪欲の念が頻発し、瞋恚の念が生じ、戒を破り煩悩を起こし悪業を造る。これが何の聖人か?過ちを認め修正することを繰り返す循環。これがどのような見道か?全く信頼できず心を疲弊させる。意識が疲労を感じれば、際限なく意根を督励することもできず、ブレーキが効かなくなる。その結果は如何に?
仏法に出会った修行者は皆、解脱の法を真摯に実践すべきである。便宜的な心理で自分を欺き他者を騙すべきではない。紙は最終的に火を包めず、紙の家は風雨に耐えられず、早晩崩壊する。永続的な安楽の境地を早急に求めるのが智者である。
3
+1