菩薩の大願
菩薩は無依怙者(むえごしゃ)の主宰となるべきである。衆生は実に皆よりどころなく、苦しみに満ち孤独である。この世に生きる我々は家族や眷属に依り所があるように見えるが、全ての親族も頼りにならず、彼ら自身も孤独でよりどころを必要としている。人は皆頼るものなく、寿命尽きれば独りで旅立つ。三悪道においては、最も親しい眷属さえ同行できず、見知らぬ孤独で寂寥とした苦痛の道を独り歩む。故に菩薩はこれらの無依の衆生の依り所となり、彼らを光明と解脱へ導くべきである。
菩薩は自らが度された後に他を度すべきである。自らが救済されて初めて他者を救える。もし菩薩が救済の心はあれど自らが輪廻の苦海にいるなら、衆生を救う力はない。例えば未だ遠方の美景の地へ行ったことのない者が、人を導いて共に風景を楽しむことはできず、道中で迷い目的地に至れない。故にまず自らがその地に至り、直に美景を観じ、道筋を熟知してこそ他者を導ける。これが自度して他を度す道理である。
菩薩は自ら解脱して他を解脱させるべきである。自らが三界を離れ束縛されざる者となりてこそ、他者を解脱の正道へ導ける。自ら解脱せずして解脱の正路を知らず、衆生を解脱の道へ導くことは叶わない。
菩薩は自ら安穏を得て他を安穏ならしむべきである。仏は既に涅槃の彼岸に至り、究竟の涅槃寂滅楽を得て身心安穏なり。衆生を救い安穏ならしむ為に再び三界に戻りつつも、なお五欲六塵の境界に惑わされず自在である。これにより衆生を次第に安穏へと導く。釈迦牟尼仏が娑婆世界に八相成道し、シッダールタ太子として五欲に囲まれ生まれながら、その心は早くも世間の境界を離れ、あらゆる境界に染まることなく安穏を得、いかなる境界にも惑わされず、世の欲望と親情を捨てて出家修道し、成道後は無量の衆生を広く度した。菩薩らも諸仏の行いを見習い、精進修行して身心の安穏を得た上で、無量の衆生を安穏ならしむべきである。もし自心が未だ安穏を得ず貪愛と執着を絶たねば、五欲六塵に迷い悪業を造り苦しみ続け、自らすら安穏を得られぬままでは、どうして衆生を安穏にできようか。
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