衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年04月22日    木曜日     第1開示 合計3331開示

実修実証とは何か?(如本の観行日誌から語る)

如本:今朝上座し、しばらく呼吸を調整したが、あまりスムーズにいかず、集中できなかった。それからゆっくりと心経を黙念すると、止観の状態に入り、心がかなり安定した。それから出入息を観ようと試みたが、足が痺れて張ってくると、心の浮つきが生じようとする、あるいは雑念が生じようとするので、出入息の観察をやめ、再びゆっくりと心経を黙念すると、また止観の状態に入り、心がかなり安定した。

下座してトイレに行った時、この身体は「流動」しているものだと感じた。不変の身体の相などどこにあるだろうか。食事の時、目の前に座る家族を見つめながら、それはただ眼・耳・鼻・舌と五臓六腑が一つの骨格の上に組み合わさった仮の人形にすぎないと感じた。しかし彼女は自分がそのような仮の人形であることを知らない。このような自分の感覚を彼女に伝えることはできず、彼女を不機嫌にさせてしまうのではないかと恐れた。食事の時、碗の中の四大の物質からなる米飯と野菜を見ながら、それらが自分の身体に入って身体の一部になると感じた。物質である身体と物質である米飯には何の違いもなく、どちらも四大の物質にすぎず、まるでベランダの花が土と水を吸収して様々な植物に育つのと同じである。

なぜ花を自分だとは思わないのか。なぜ四大の物質である色身を我と執取 (upādāna) するのか。なぜ人の身体はそれぞれ違う形に育つのか。それは自分の心識とどんな関係があるのか。ここまで考えて思いとどまり、それ以上思考を進めない。以前学んだことを当てはめて分析・思考したくない。この問題を意根に任せて思量 (manasikāra/manana) させ、絶えず観察し、尋伺し、噛み締めてこそ「意~~思(意味)」が生まれ、疑情を抱いてこそ深く探求したいという欲求が生まれるのだ。

今日外出して活動し、街で向こうから歩いてくる人を見て、その身のこなし、動作、話しぶりもまた動いている仮の人形だと感じた。しかし彼らは自分が仮の人形であることを知らない。入り口で顔見知りに挨拶した時、相手の額を見つめながら、額の下は白骨であり、中には同じものが詰まっていると思った。本当に何の面白みもないと感じた。人の話を見ていると、相手が発する言葉の音声は、気流と物質である唇・舌・喉・気管の気流の衝突にすぎず、人間が太鼓を打ち鐘を鳴らすのと大差ないと感じた。普段言ったり争ったりする正誤、是非、美醜はどれも何の意味もない。話したくない。呼吸に安住する。(日誌終わり)

以上は四念処の修行の一つの過程である。この過程の中で観行 (vipaśyanā-caryā) はますます深くなり、ますます広くなり、次第に生活の隅々のあらゆる面に広がっていき、朝から晩まで、睡眠に至るまで無間に達し、その心は世俗の相から次第に離れ、ますます空になっていく。次第に凡夫の骨を換え、凡夫の胎殻を脱ぎ捨てていき、このように絶えず用功し続ければ、遅かれ早かれいつか龍門を跳び越え、鯉が龍に変わるのである。

観行を日常の起居のあらゆる面に広げ、無間に達した時、それが初步的な三昧 (samādhi) の境地である。この三昧の中には禅定もあり、智慧もある。ただまだ完全で究竟ではないだけであり、完全にして究竟の三昧とは悟道の時の三昧、法眼浄の三昧、三縛結を断じた三昧、三悪道に入らない三昧である。このような観行は単なる過程にすぎず、身心が蜕変する過程である。この過程の中で、五根・四正勤・四如意足・七覚分・八正道・四念処が次第に具足円満していき、証道の条件が具足した時に断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) し、証道位に入って法眼浄を得るのである。 

これこそ実修と呼ばれるものである。生活の隅々のあらゆる面にまで実際に及び、内心の一つ一つの心念、一つ一つの行持、一つ一つの節操にまで実際に及び、一つ一つの段階にまで実際に及び、仏陀が説かれたすべての修行の過程と必要な条件の中にまで実際に及ぶ。少しも疎かにならず、焦らず、煩悩が生じないまでに、心念が止息するまでに実際に行うのである。もちろん止息するのは意識の心念であり、意根の法に対する思量 (manasikāra/manana) は決して途切れることなく、心心無間である。

だから最後の見道は必ず意根の見道・証道であり、証果の後もその心念は無間断であり、その転変した心行・心所法も無間断で連続しており、五品の粗重な煩悩も無間断に滅除される。一時は聖者、一時は凡夫と行き来するような転換はなく、意識を使って意根を空・無我の認識へ牽制して戻らせる必要もない。 

これに対して意識の証果は正反対である。意識が清明な時は好人であるが、境界が来ると意根は随煩悩を現起させて染汚意となり、六識は覚察せず随って染汚業を造作する。後になって意識が不適切だと感じ、再び意根を督励して煩悩を抑制するが、いくら抑制しても煩悩はすでに生じており、過ちはすでに犯され、悪業はすでに形成され、種子はすでに残されている。未来はどうするのか。動もすれば貪欲の念頭が現れ、動もすれば瞋恨の念頭が現れ、時折戒を犯し煩悩を起こし、悪業を造る。これはいったいどんな聖者なのか。後になってまた過ちを知り、また修正する。このように絶えず循環を繰り返す。これはいったい何の道を見たのか。これほど当てにならず、これほど心が疲れるものか。意識が疲労を感じるようになると、もはや際限なく意根を督励することはなくなる。ブレーキが効かなくなったら、それはどんな結果を招くのか。 仏法を学び修行する者は、すでに解脱の法に出会ったのだから、誰もが正直に、着実に、地に足をつけて修行すべきである。投機的に抜け道を求める心理を持ってはならない。自分を欺き、さらに他人を欺くことは、紙は結局火を包み隠せず、紙の家は結局風雨に耐えられず、遅かれ早かれ壊れるのだから、早めに永遠の安楽の止息処を見つけるほうがよい。これこそ智者である。

——生如法師の開示
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