原文:その時、世尊は阿難及び大衆を導かんとして、心を無生法忍に入らしめむと欲し、師子座に於いて阿難の頂を撫でて告げたまわく、「如来が常に説くところによれば、諸法の生ずるは唯心の現じたる所なり。一切の因果、世界微塵も、心を因として体を成す。
釈:世尊は阿難と大衆が無生法忍を悟り、不生不滅の本心たる如来蔵を明らかにせんと欲し、師子座において阿難の頭頂を撫でながら告げられた。如来である私は常に説いている、世に生じる諸法は全て本心如来蔵より顕現したものであると。一切の因果、世界の全体は微塵に至るまで、皆如来蔵によって自らの体性を得る。如来蔵無くしてはこれらの諸法は体性を有することがない。
「唯」とは唯一無二を意味する。世尊の意は、世に生じる一切の法は全て如来蔵より生じ、他法からは生ぜず、他の法は全て縁に過ぎず直接の生因ではない。縁がなくては諸法は生じ得ないが、仮に縁があっても如来蔵がなければ諸法は生じない。更に世尊は続けられた、世界から微塵に至るまで、一切の因果は本心如来蔵によって初めて自らの体性を成就する。如来蔵が諸法に体性を付与するのであり、如来蔵無くしては諸法は生じ得ず、従って諸法の相貌と体性も存在しない。
例えば衆生の色蘊は、如来蔵が四大種子によって生じたものであり、色蘊の性質と相貌は如来蔵が賦与したもので、その本質は四大の属性である。受想行識の四蘊は如来蔵が識種子によって生じ、生じた後に初めて受想行識の機能体性が現れる。如来蔵が受想行識を生じなければ、受想行識とその機能体性は存在せず、その機能体性の実質は識種子の体性と相貌である。
原文:阿難よ、もし諸世界の一切の所有、その中には草の葉、縷の結びに至るまで、その根源を詰めれば皆体性を有する。仮に虚空といえども名と相貌を有す。まして清浄なる妙浄明心、一切の心に体性を与えるものが、どうして自らの体性なきことがあろうか。もし汝が分別・覚観・了知の性を固執してこれを心と為すならば、この心は一切の色香味触、諸塵の事業を離れて別に全き体性あるべきなり。今汝が我が法を聴くのは声塵に因って分別を生ずるが故である。
釈:阿難よ、諸世界に存在する一切の法は、最も微細な草の葉や根茎までも固有の属性を有する。虚空さえも相貌と体性を有する。まして清浄微妙な本心、一切に体性を与える心体がどうして自らの体性を有さないことがあろうか。もし汝が分別性・覚観性・了知性を執着してこれを本心と見做すなら、その心は一切の色香味触から離れ、塵境における造作を超えて独立した体性を有するはずである。今汝が私の説法を聴いているこの分別作用は、声塵が存在するが故に生じるものである。声塵がなければ心は分別できない。この声塵を分別する心は本心ではない。
ここで世尊は大衆に意識と如来蔵を区別するよう教えられた。塵境を了別するのは意識であり、声塵などの境が現れた時に初めて意識の了別が生じ、塵境がなければ意識の了別もない。如来蔵は塵境を了別せず、塵境を離れても完全な体性を有する。五遍行心所法は塵境がなくても常に運行し、作意・触・受・想・思の心行は永遠に止むことがない。
原文:仮に一切の見聞覚知を滅ぼし、内に幽閑を守るとも、なお法塵の分別影事に過ぎぬ。私は汝にこれを非心と執せよと命ずるのではない。ただ汝が心を微細に推察する時、前塵を離れて分別性あるならば、それが真の汝が心である。もし分別性が塵境を離れて体無きならば、これは前塵に対する分別影事に過ぎぬ。塵境は常住ならず、変滅する時この心は亀の毛・兎の角の如く、汝の法身は断滅に同じくなる。そうなれば誰が無生法忍を修証しようか。
釈:たとえ六塵に対する見聞覚知を全て滅ぼし、内に空寂を守って思惟分別を止めたとしても、これは法塵を分別する意識の幻影である。私はこの分別性を心でないと決めつけるのではない。ただ汝が心を微細に観察する時、対象となる塵境を離れても分別性が存在するなら、それが真の本心である。もし分別性が塵境を離れて体性を失うなら、それは塵境を分別する意識の幻影に過ぎない。塵境は常住不滅ではなく、塵境が変化滅する時、この分別心は亀の毛や兎の角のように実体を失う。そうなれば汝の認める法身は断滅に等しく、無生法忍を修証する主体が失われる。
世尊の意は、法身は断滅せず、衆生が無生法忍を修証する対象である。もし法身が断滅すれば目標が失われ、無生智を得ることができない。塵境に依って存在する意識は断滅的であり、塵境が滅すれば意識も滅する。故に塵境を了別する心体は法身ではない。
これらの段落は、世尊が大衆に意識と法身如来蔵を区別する方法を教え、生滅する意識と不生不滅の如来蔵を見誤らないよう指導されたことを示している。「ただ汝が心を微細に推察する時、前塵を離れて分別性あるならば、それが真の汝が心である」との言葉は、意識と如来蔵を区別する方法を示すものであり、本心を認証する方法を教えるものではない。
この一句を特別に取り上げ、意識による悟りを主張する者がいるが、経典全体の文脈は真妄の区別を教えるものである。真妄を弁別する正知見を得ることは大乗仏教の基本ではあるが、それ自体が即ち悟りを意味するものではない。意識単独による悟りの証得は、経典や真に悟りを証した菩薩の論書にも根拠がなく、真の善知識が認めるものではない。
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