春雨がしとしとと降り、万物を潤す音もなく。これは春雨に対する知覚であり、人々はこのような感覚と知性を自我と見なし、知覚される対象を自己の所有物とし、自我とその所有が真実で実在すると考える。そこでこれらの知覚性に執着し、これらの知覚のために様々な身口意の業を造り、業種は如来蔵に蓄えられる。業種が熟する時、如来蔵が業種を送出し、業を造った者はこれによって善・悪・無記の果報を受ける。起因はこれらの知覚を真実とし、自我とその所有と見なし、知覚される人事物に執取し貪厭し、知覚のために業行を造作することにある。一切の業行は自我によって存在し、自我に起因する故に、我有るを罪即ち生ずと説く。
我々が知覚する人事物が真実かどうか、所有可能かどうかを分析しよう。例えば春雨中の雨粒は地水火風の四大種子から成り、如来蔵が生じたものである。雨粒が地面に落ちる音も地水火風四大種子から成る声塵で、如来蔵が生成したものである。これらの外色塵と声塵は一人の如来蔵が生成したものではなく、共業衆生の如来蔵が共同で生成したものである。雨音の生成過程は極めて複雑で、音声の現起は物質運動と関係し、物質運動は四大の変化と関連する。
物質が衝突すれば音声を生じ、物質が運動すれば衝突する。四大種子の生滅変異により極微粒子の不断の運行が生じ、物質は運動する。故に一切の現象は如来蔵の功能作用である。
音声は多くの種類に分けられる。瑜伽師地論第一卷には分類記述がある:自らの如来蔵が単独で執持する音声(話声・咳声・呼吸音・内臓器官の発する音等)、身体と外界物質の接触摩擦で生じる音声(歩行音・物を取る音・衣服の音・身体と物質の衝突音等)は自らの如来蔵と外界物質の作用による音声である。その他の宇宙の天籟の音は共業衆生の如来蔵が共同で幻化執持するものである。
音声の内包は更に多く、属性も多様で、帰属の区別は極めて複雑である。これらは全て如来蔵の作用であり、大多数は共業衆生の如来蔵が共同で執持作用した結果であり、また地水火風四大の生滅変化から生じたものである。
色塵・声塵・法塵が眼根・耳根・意根と接触し、如来蔵が眼識・耳識・意識を生じ、雨粒と雨音の声塵に対する知覚が生じ、続いて感受が起こる。即ち色塵・声塵・法塵は如来蔵が出生し、眼根・耳根・意根は如来蔵が出生し、眼識・耳識・意識は如来蔵が出生する。これら全ては虚妄であり、いずれの法も自主性を持たず、我でもなく我の所有でもなく、根本的に無我である。
観察を究めれば、至る所に如来蔵の功能作用があることが分かる。五陰自体の真実性など存在せず、故に如何なる法にも我はなく、全て即ち真如である。如何なる者も、如来蔵七大種子の功能作用でない事物や法を見出せない。全ては如来蔵の作用であり、その功績は如来蔵に帰する。七識心はなお如来蔵に依存して衆業を造り、如来蔵は決して分別せず拒絶もせず、求めに応じて千処に祈れば千処に応じる。妙音観世音とは即ち如来蔵を指し、事ある所に赴きながらも来も去りもせざるを「不来不去」と称する。
内香塵・内味塵は自らの如来蔵が単独で変現執持する。外味塵・外香塵は共業衆生の如来蔵が共同で変現執持する。ここにも多くの複雑な要因がある。内触塵は自らの如来蔵が単独で執持変現し、外触塵は共業衆生の如来蔵が共同で執持変現する。これも同様に複雑である。同様に、内色塵と内法塵は如来蔵が単独で変現し、外色塵と外法塵は共業衆生の如来蔵が共同で変現する。六根・六塵・六識は全て虚妄相であり真実でなく、如来蔵が出生したもので、風音や雨音のように過ぎ去って留まらない。
我々が今聞く音声は実は過去の音声である。音声が発せられ耳根に伝わるまでに時間を要し、如来蔵が再び識心を変現して弁別すれば更に時間が過ぎ、反応を返せばまた時間が過ぎる。識心が他の五根で弁別反応する時も、全て過去の塵境に対応しており、当下は存在しない。故に我々の為す一切は過去形であり、全ては当下ではない。従って一切法に自性なく、全て如来蔵の功能作用であり、我ではない。
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