衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月29日    火曜日     第7 回の開示 合計562回の開示

私たちは現前に触れることができるでしょうか

現在の仏教界では「今この瞬間を生き、今を把握せよ」という考え方が流行しています。しかし私たちは本当に「今この瞬間」に触れることができるのでしょうか。目に見える色、耳に聞こえる音、鼻で感じる香り、舌で味わう味、身体で知覚する触覚、意識で認識する法塵——これらすべては現在の現量ではなく、すでに過ぎ去った影に過ぎません。まるでテレビを見るようなもので、私たちが見ているのは一枚一枚のフィルムが高速で再生されて生じる一連の動画です。これらの画像は刹那的に生滅しており、個々のフレーム自体は静止画です。連続再生が速すぎるため、映像が連続しているように見え、中の人物や事物が連続的に動いているように見えますが、表面的に真実のように見えても、実は全て影であり、さらに言えば影の影なのです。

私たちの六根が対応し、六識が認識するものは全て過去の影であり、現在は存在せず、ましてや真実などありません。五識が分別するのは現量境だと言われますが、五識が分別するものは決して真の現量境ではなく、これもまた過ぎ去り滅びた影であり、幻化されたものは真実でも現在でもありません。

五根が接触する対象も同様で、真の現量境ではありません。色・声・香・味・触という五つの情報が五根に到達する時点で、それはすでに無数に生滅を繰り返した四大の微粒子であり、微粒子の本来の姿でもなければ、最初に発生した色・声・香・味・触でもありません。例えば音声は発生源から伝播経路を伝わるにつれ、エネルギーが次第に減衰します。耳根に到達する時点では振幅もエネルギーも弱まり、伝播距離が長ければ長いほど耳根に届くエネルギーは微弱になります。さらに耳神経を経由して後頭部の勝義根に至る過程で、四大の微粒子は再び変化する可能性があり、形成される音声はもはや本来の音声でも、音声の現在でもありません。他の四根についても同様です。

したがって私たちが把握しようとする「今この瞬間」は全て過去形の現在であり、今この瞬間にとっては既に過ぎ去った事象です。「今この瞬間」と言葉にした瞬間、それは既に過去となります。あらゆる瞬間は念々と留まることなく、流水の如く去って再び戻りません。私たちが各瞬間に行う行為は未来の方向性に影響を与えるのみで、現在や過去を変えることはできません。いわゆる真実、いわゆる現在とは如来蔵が接触するものですが、如来蔵は分別せず、言葉で表現できないため、私たちには知る由もありません。そうであるならば、どうすれば現在の色・声・香・味・触・法を正しく扱えるのでしょうか。それはもはやこれら一切の法を真実と見做さず、強い執着を起こさないことです。もちろん完全に徹底して執着しないのが最善であり、そうすれば心は完全に解脱するのです。

——生如法師の開示
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