万法一に帰す、この一とは一真法界の一であり、一切の法は如来蔵であると観ずべきである。悟り以前のこの観方は相似的な理解であり、推測や想像に類する。なぜなら如来蔵及び如来蔵の仏性の働きを見ずしては、了知し観察することができないからである。一切の法は如来蔵と一なるか二なるかと言うほかなく、一二とは一と異の意味である。万法と如来蔵は一ならず異ならず、この道理は私が幾度も説いてきた。
もし現象界の二つの法が一か二かと問うなら、現象は確かに異なり、二つの現象であるが、実質はなお一であり、如来蔵に帰属し、すべて如来蔵性である。
維摩詰が黙然無言を示現したのは、正に如来蔵の様々な無の体性を表しているが、如来蔵本体そのものではない。如来蔵本体は永遠に表に出ず、ただその付き従う者や補佐役が大衆と対面するのである。仏ですらもてなさず、顔を立てず、かくの如き尊貴さなのである。
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