無情とは、識心がなく、識心の全ての機能体性を持たないことを意味する。したがって識別力がなく、心所法の運行も存在しない。
しかし無情も如来蔵によって変現され執持されるものであり、共業の衆生の如来蔵が共同で変現し執持するものである。複数の如来蔵が共同で作用する場合、四大種子を出力して四大を形成し、宇宙器世間・山河大地・草木などの無情物を変現することはできるが、識種子を出力することはできない。したがって無情物も如来蔵の機能作用ではあるが、衆生の五蘊の機能作用は持たない。識種子の出力は個々の衆生の如来蔵の単独行為であり、識心を形成し、識心の機能作用を持ち、心所法の運行が存在する。これが有情衆生である。如来蔵が四大種子を出力する場合と識種子を出力する場合では、形成される法に違いがある。前者は識心活動がなく五蘊身を持たない無情物を形成し、後者は識心活動があり五蘊身を持つ衆生を形成する。いずれも如来蔵の機能作用ではあるが、作用が異なるだけである。
如来蔵が五蘊身において運作する時、七識と和合し、七識心と共に運作する。七識心行を了別し、五蘊身を活発に活動させる。これに対し、複数の如来蔵は無情物と配合関係を持たず、ただ四大種子を出力・変更するのみである。無情物には心行がなく、単独の如来蔵によって出生・運作されるものではない。したがって無情物の中に自己の如来蔵を見出すことはできず、無情物においては証悟できず、明心することもできない。しかし五蘊身の運行の中には如来蔵を見出し、証悟し明心することができる。このため阿含経において世尊は「五蘊は我ならず、我に異ならず、相い在らず」と説かれたのである。
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