問:初禅を得ることは、心の解脱と言えるのでしょうか。
答:心の解脱ではありません。初禅定は煩悩を抑えるだけで、煩悩を断つことはできません。したがって心の解脱は得られません。単なる初禅定と解脱には必然的な関係はなく、心解脱の条件と基準は我見を断つ功徳の受用に初禅定を加えることで、この二つが揃わなければなりません。
我見を断った後、初禅定において貪欲と瞋恚の二つの煩悩を断つことができ、心が欲界の貪欲と色界の瞋恚から解脱し、これら二つの煩悩に縛られなくなる状態を、心解脱した三果の聖者阿那含と言います。ただし無色界の愚痴はまだ断たれておらず、愚痴無明の煩悩が完全に断たれた後が智慧解脱の四果聖者阿羅漢です。三果・四果の大乗菩薩は、将来初地以上の聖者となる資格を持つことになります。
よって禅定を修めず、いかなる三昧の境地もない者は解脱を得られず、まして成仏はできません。我見を断たない者も同様に解脱できず、成仏もできません。この二つの関門は、初地と三果の前に必ず通過しなければならず、いかなる手段を用いても迂回できず、回避もできません。いかなる技巧を凝らしてもです。
たとえ三蔵十二部経を巧みに説いたとしても、この二つの関門を通らなければ解脱や成仏とは無縁であり、真実の証量とも関係ありません。口頭の智慧がどれほど高く仏地に達していても、二つの関門を一つも越えられず、必ず経由しなければなりません。そうでなければ高談闊論と言われ、解脱涅槃成仏とは無関係となります。
心解脱の条件は、ある程度の禅定の修練を基礎とし、意根が適切な禅定状態において意識の補助により観行を行い、五蘊が虚妄であることを証得し、我見を断って色身への執着を解き放つことです。そうして意根は最も初歩的な解脱を得、初果の解脱という功徳の受用を持つようになります。
解脱とは実際には意根の解脱を指します。意根が無明に縛られ、意根が生死を輪廻するのです。もし意根の無明を破らず、六識の無明だけを破った場合、死に際して意根が無明に引かれれば、再び生死の苦海に沈むことになります。その時六識は跡形もなく消滅し、来世へ行くことさえできません。その時意識に無明があるかないかは問題ではなく、五陰身が現世にある間に、無明のない意識が効果的に意根を薫染し、意根も無明を破り無無明となることが重要なのです。もし五陰が生きている間に意識に無明があれば、意根を薫染して無明を破ることができず、依然として身口意の悪行を造り来世への悪業の種を残し、生死輪廻の苦しみを受けることになります。
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