衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年06月06日    水曜日     第5 回の開示 合計604回の開示

如来蔵の証自証分(一)

一般の衆生に対して如来蔵に証自証分がないと説く理由は、第一に、凡夫や地前の菩薩は如来蔵の証自証分を観察することができないため、如来蔵に証自証分があるとは説かないこと。第二に、如来蔵の証自証分の内容は意識の証自証分の内容と異なり、他の妄識の証自証分とも異なることである。如来蔵は無我であり、我の存在を知らないが、しかしどの法が運行したかを知り、すでに運行したものは繰り返さず、未完了の運行は継続し、いかに運行すべきかを知っている。

如来蔵の無我性における証自証分は、言葉で明確に説明することが極めて困難である。あたかも如来蔵の了別性や了知性を普通の衆生に説き明かすのが容易でないのと同様である。如来蔵は六塵を了別するか?もちろん了別する。さもなければ、いかにして六塵を顕現し、改変し、保持することができようか。ただし第八識のこの種の了別は、六識のように具体的な内実を了別することはできず、六塵を了別した後、了別とは何かを知るのである。如来蔵が六塵を了別した後、何も知ることなく、再び了別と運行を続ける。如来蔵の機械的な了別方式は、あたかもコンピューターがプログラムを了別するようなもので、コンピューターも字体を了別し書き出すことができるが、字体が何であるかを知らず、意識のみが字体の意味を知るのである。

如来蔵のその了別は、洗濯機が指令を了別して洗濯するのに似ている。ただし洗濯機は指令の具体的な内容や意味を知らず、意識のみがそれを知る。如来蔵の運作了別了知性は、ロボットのような無心さを有し、作業をしながらも遂行内容を知らず、意識のみがそれを知るのである。

——生如法師の開示
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