衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年06月09日    土曜日     第1開示 合計611開示

意根が求めるのは証拠と証明過程です

毎日、色身を観察対象とし、色身が粒子の集まりであると観行し、その虚妄幻化で実体がないことを認める。歩く、座る、横になるなどの動作もこのように観行すれば、身見を断つのはおそらく早い。結果:一、色身に障害がなく、身体は健康であるが、その虚妄不実の性質を了知し、身見を断つ。二、禅定が成就する。三、観想能力が向上し、様々な三昧を成就できる。

順序に従って観行し、まず皮膚を観行し、次に内部の他の部分を観行し、少しずつ範囲を広げ、全身が波動する粒子状態を完全に呈するに至り、その生滅無常・非我を確認する。

科学が証明しているように、私たちの肉眼が見る一切の色法は真実の境界相ではなく、無知に覆われた認識能力は非常に劣っている。したがって、私たちは修行において無明愚痴を除去しなければ、自らに騙されず、真実を認識し、本源に戻ることができる。

この十三枚の図を見たが、意識心が理解したとしても、末那識(意根)も理解しただろうか? そうではない! たとえ意識が末那識にこの理を一万回繰り返し伝えても、末那識は理解せず、この理を認知しない。

ではどうすればよいか? 禅定の中で実際に観行し、末那識自身に少しずつ認識させ、理解させる必要がある。末那識は「なぜか」を知りたがり、求めているのは証拠であり、証明の過程であって、結論ではない。正しい証明過程があれば、末那識は自然に正しい結論を導き出す。それがすなわち証得である。

例えば、「一切法無我」という言葉を、意識が心の中で毎日絶えず唱えるとする。二十年唱えたとして、末那識は本当に一切法がなぜ無我なのかを理解できるだろうか? 五蘊世間、つまり三界世間の一切の万法は一真法界であり、全体が真如である。意識が毎日このように末那識に伝えたとして、二十年後、末那識は本当にこの理を理解できるだろうか?

それぞれの衆生の末那識は、無量劫また無量劫の生生死死、苦難を経験してきた。しかし今に至って、末那識は生死の恐ろしさを認識しただろうか? 末那識は生命の苦を認識しただろうか? 末那識は五蘊が無常であることを認識しただろうか? 末那識に解脱したいという考えはあるだろうか?

全くない。依然として仏陀の教えに頼り、四聖諦の法を薫習し、いつ末那識が苦を認識し、脱したいと思うかは分からない。これを見ると、末那識は何を経験しても自動的に理を理解せず、深く考え、証拠を探し、絶えず反復して証明し、証拠が確固たるに至って初めて、末那識はこの理を認めるのである。

もし「五蘊虚妄」という言葉を意識が十万回唱えたとして、末那識は五蘊が虚妄であると認識できるだろうか? 絶対にできない。理は上記と同じである。

毎日このように観行すれば、物質色法が刹那刹那に更新変異していることを、私たちは理解できるようになる。物質色法が自然に生じ、変化し、滅していくのではないことも理解できる。衣服が自然に古びるのではないこと、人が自然に老いるのではないこと、家が自然に壊れるのではないことも、全て理解できるようになる。一切の法は、如来蔵が生じた後は放っておかれるわけではなく、全ての物質は如来蔵によって管理されている。四大の微粒子は如来蔵が物質に与えたものであり、四大の微粒子の絶え間ない生滅変異は、如来蔵の作用の結果である。一真法界とは、この意味である。

科学者が提示した十三枚の図は証拠であるが、禅定の中でさらに仔細に観行し、自ら思量して認める必要がある。他人の結論は自分の結論ではなく、意識の結論は末那識の結論ではない。それぞれが思惟し、それぞれが各自の結論を導き出すのであり、互いに代わることはできない。

——生如法師の開示
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如来蔵の証自証分(四)

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仏法修行は順次を踏むべきです

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