五遍行心所法は常に変わらず識心の運行に随伴するが、その他の心所法、例えば五別境心所法は特定の状況でのみ作用し、煩悩心所法も常に作用するわけではない。また、識心の清浄さの程度に応じて、煩悩心所法は次第に減少し滅除され使用されなくなる。あまりに頻繁に使用する人は、必ず煩悩の重い人である。心行がまだ修善されていない人は、十一善心所法が容易には作用・現前しない。心行が善に変わった人は、十一善心所法が常に現前して作用し、起心动念するやいなや善と相応する。
場合によっては、いくつかの心所法が並行して作用することがある。例えば五遍行心所法は刹那も運行を止めない。同時に識心に欲望が生じれば欲心所が現れ、同時に心中に念があればこれは念心所であり、同時に自ら念があることを知ればこれは慧心所が運行していることになる。さらに同時に慚愧心が生じて欲望や念を持つべきでないと思えば、これは善心所が作用していることになる。もし同時に某人某事を想起して恨みの心が生じれば、これは煩悩心所が運行したことであり、この時善心所は現れない。二者はどちらか一方のみ存在する。
善悪の心所法は並行して作用できない。意識が正しく一つの法に対して善心を起こしている時、悪心は現れない。貪心所は悪であり、不貪は善である。二者は必ずどちらか一方に属し、同時に存在して現行することはできない。貪があれば不貪はなく、二者はどちらか一方のみ存在するか、あるいは全く存在しない。瞋は悪であり、不瞋は善である。二者は必ずどちらか一方に属し、同時に存在・現行できない。瞋と不瞋は一対であり、不瞋があれば瞋はなく、二者はどちらか一方のみ存在する。修行が優れた人は善心所が増加し、現行する機会が多い。定力に優れ心が清静な人は、善悪の心所が共に現れにくく、心は善でも悪でもなく、境に対しても動じない。
五別境心所法と五遍行心所法は並行可能であり、善悪心所法のいずれか一方とも並行できる。識心に明があれば無明はなく、無明があれば明はない。対立する法は同時に現行できず、前後に現行することは可能である。修行が進み証量が高まるほど、日常生活において心思は比較的単純になり、つまり並行する心所が少なくなる。たとえ五遍行心所法が現行する場合でも、その運行過程は比較的簡素で複雑ではない。五別境心所法の中では定心所法の現行時間が多く長く、欲・念・勝解心所法はほとんど現行せず、煩悩心所法はさらに現行が少なくなる。
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