衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年06月11日    月曜日     第1 回の開示 合計622回の開示

第六・第七識がともに如来蔵を証得してこそ真の悟りである

如来蔵を証得して悟りを開くには、意識が必ず証得しなければならない。しかし意識だけが証得しても真の証得とは言えず、意根も同時に証得する必要がある。意識だけの証得は全て解悟に過ぎない。もし意識だけが証得するなら、他人から「どれが如来蔵か」「どこにあるか」「どのような作用があるか」と教えられれば、それで悟りを開いたことになる。これが真の悟りなら、我々は全ての衆生に如来蔵の正体を教えられるはずだ。そうすれば衆生が大乗仏法を修学する必要もなく、禅を参究する必要もなく、全ての衆生は直接悟りを開いて菩薩となるだろう。そして各段階の密意を直接教えれば、全ての衆生は直ちに証得し、あっという間に成仏できる。なぜ世尊はこの方法を取られなかったのか。

一切の法は意識が先に解り先に証得し、その後で意根が解り証得する。意根は智慧が不足しているため、意識の思考能力に依存しなければならない。多くの法を意識は知っているが、意根は知らない。意根は理解し証得することが容易ではない。

現代人の意識は非常に聡明で、容易に道理を理解できる。現状に満足すれば問題が生じ、仏教は急速に滅びるかもしれない。六祖壇経が現れる以前、仏教徒は皆実修し、禅定と参禅に励み、決して口先だけの禅を弄ばなかった。壇経が現れてから方向性が転換し、大衆が集まれば皆口頭禅を語るようになった。壇経の内容を読んで全て理解したと思い込み、修めるべきものはないと考え、実際の修行もなく侃々諤々と議論するようになった。現代人はさらにこの傾向が強い。

——生如法師の開示
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