大王よ、その識が生起する時、来る所なく、滅するに至る所なし。その縁が生ずる時、来る所なく、滅するに至る所なし。その業が生ずる時、来る所なく、滅するに至る所なし。大王よ、いささかの法もこの世から他世へ至ることはない。何故ならば、自性が空なるが故に。
釈:仏は説かれた。大王、最初の識心が生起する時、来処がなく、滅する時にも去処がない。識心を生じる縁が生ずる時、来処がなく、滅する時にも去処がない。造作された業行が生ずる時、来処がなく、業行が滅する時にも滅する所がない。大王、一切の法はこの世から来世へ移行することはできない。何故か。一切法の自性は空であるからだ。
我々が母胎にいる時、幾つかの識心が生起する際、どこから我々の身に来たのか。来処があるか。来処はなく、来処を見出すことはできない。我々の識心が滅する時、どこへ滅するのか。去る所もなく、滅する所を見出すことはできない。
識心の縁が生じた後、識心が現れるが、この縁も来る所なく滅する所がない。識心の生起には幾つかの助縁が必要で、助縁がなければ識心は生じない。例えば眼識を生じるには九つの縁が必要である:明・空・根・境・作意・分別依・染浄依・根本依・種子。故に眼識は理由なく生じるものではなく、この九つの条件が全て具足して初めて眼識が生じ、具足しなければ生じない。母胎内では胎児に眼識がない。母胎内に光明と空間がないためである。母胎で最初に生じる識は意識である。意識の生起に必要な縁が比較的少ないため、意識は生じやすい。空間がなければ、手が眼前に密着していると眼識は手を見ることができず、太陽光や照明がなければ眼識は物体を見ることができない。条件が具足しなければ眼識は生じない。故に因縁条件が具足して初めて眼識が生じる。眼識が縁に依って生じることは虚妄であり、不自主である。眼識は自らの存在を決定できず、自主性を持たない。
他の諸識も同様である。例えば耳識の生起には八つの因縁条件が必要で、光明以外の諸縁が具足して初めて耳識が生じる。鼻識・舌識・身識の生起には七つの縁が必要で、光明と空間を除く他の縁が具足して初めて生じる。意識の生起には作意・意根・法塵・阿頼耶識・意識種子の五条件が必要で、五識に比べ必要な縁が少ないため現行しやすい。意根の生起に必要な縁は作意と第七識の識種子のみで、更に縁が少ないため意根は常に現行しており、滅することが極めて困難である。意根が三界の法に対し作意を生じず、三界への貪愛を断った時、初めて意根は滅する。故に、様々な因縁条件が集まって生じる法は、生滅する法、虚妄の法、無我の法であると言える。
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