如来蔵自体は無相であるが、その運行には行相があり、跡を尋ねることができる。この無相の行相は、如来蔵が変現する必要はない。なぜなら如来蔵自体が真実の法であり、真実の法は変現を必要とせずに顕現するからである。したがって、如来蔵は内外の相分には属さず、如来蔵が何らかの作用を及ぼせば、智慧ある第六識によって発見され、その形も相もない跡を捉えることができる。
如来蔵の心所法の運行にも行相があり、識を転じて智となした第六識は、如来蔵の心所法の無形無相の運行様式を眼前に観察し得る。物体の揺れから風の勢力の大きさを完全に観察できるように、風の勢力こそが無形無相の相であり、第六識はこれを眼前に観察し得る。如来蔵を観察するのも同様の理である。
如来蔵の心所法の運行を観察することと、如来蔵の運行行相を観察することには、なお微細な差異がある。
意識が如来蔵の行相を観察する場合、この行相は如来蔵が変現するものではない。なぜなら如来蔵は真実であり、仮の法こそ変現を必要とするからである。如来蔵のこの運行行相は、如来蔵本体そのものではなく、如来蔵が顕現させた相であり、仮でも真でもない。例えば如来蔵の真実性と如如性は、真実でもなく、仮でもない。また実法でもなく、実法は如来蔵本体と仏性のみである。
阿羅漢の無余涅槃においては、仏のような無上の智慧をもってしても、如来蔵の本体を観察することはできず、如来蔵の運行行相を観察することもできない。したがって、如来蔵は無相であり、不可視であると言われる。その運行の行相も、如来蔵の作用が五蘊の虚妄の法の上に現れて初めて顕現するものであり、如来蔵の付随的な機能作用に過ぎず、実体ではない。
如来蔵の運行行相は一種の法塵であり、意識心の智慧認知がどのような状態にあろうと、存在するか否かに関わらず、この法塵相は永遠に存在する。これは如来蔵が運行する際に顕現するものであり、変現されたものではない。種子がないため、意識に智慧がない時はこの法塵相を識別できない。さらに例えるなら、如来蔵の心所法の運行は一種の法塵相であり、意識が存在するか否か、意識に識別する智慧があるか否かにかかわらず、この法塵相は永遠に存在している。これは如来蔵が変現したものではなく、如来蔵が運行する際に自ら顕現するものである。
あたかも人が昼間の日光の下で歩き、座り、臥すことにより、歩行・坐臥の影が現れるように、これらの影は人が主体的に現じ出したものではない。両者の道理は似ているが、完全に同一ではない。あまりに深遠で微細な法は、あまりに明瞭かつ詳細に語ることはできず、観察の智慧ある者同士が以心伝心で理解し合うものである。
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