衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年06月13日    水曜日     第4開示 合計637開示

なぜ仏教では密意を明言することが厳禁されているのか

仏教において悟りを得るべき一切の法は、全て秘密法に属します。いわゆる秘密法とは、これらの法は自ら参究し、自ら考証すべきものであり、他人から既成の答えを得るべきではなく、意識心で推測や想像をすべきではないということを意味します。なぜなら、他人から得た既成の答えや、推測・想像による答えは、ただ意識心と相応するだけで、意識は容易に理解・掌握できますが、末那識(意根)は理解も掌握もできないからです。末那識が理解・掌握するには、必ず参究の過程を経なければならず、末那識自らが意識の思惟による証得に参与し、意識から伝えられる一つ一つの細部を理解し、一つ一つの証拠を掌握して考証と思量を行い、証拠が十分で末那識の思量が明らかになった時に初めて、末那識は究竟を了知できるのです。末那識が知らなければ証得したことにはならず、末那識が証得しなければ疑いが生じ、疑いがあって真実を証得しなければ、解脱の功徳を受用することはできません。

したがって仏教では、大乗法においてのみならず、たとえ小乗法においても、あまりに具体的な観行を明説することを厳禁しており、意識が知って末那識が知らないという事態を避けています。もし明説すれば、意識心は即座に明らかにできてしまい、参究することができなくなります。参究を経なければ、末那識は明らかにすることができず、証得することもできません。末那識に疑いがあって決断できなければ、解脱の功徳を受用することはないのです。

ですから仏教においては、大乗・小乗を問わず、いかなる法であれ、意識が証得するだけでなく、最も主要なのは末那識に証得させることです。なぜなら末那識は身心を掌握しており、ひとたび真理を証得すれば、真理に随順し、身心をリラックスさせることができ、それによって身心に解脱の功徳を受用させることができるからです。意識による解悟には解脱の功徳受用はありません。末那識が悟りを証得する時、身心世界は動転し、明らかな変化が生じます。他人は外見から、この人の精神状態が変化し、軽安自在で意気盛んになっていることを見て取ることができます。かつての禅師たちは道眼を持っており、参禅を続けてきた弟子が歩み寄って参禅の結果を表明しようとする時、弟子が口を開く前に、禅師はこの人が道を得たことを知りました。なぜなら弟子の精神・風貌・気質の全体が変わっているのを見たからです。

このことから、末那識の法証得における決定的な重要性は、看過できないものであることがわかります。修行者は決して意識による粗略で浅薄な了知に満足して、末那識による深い体証を顧みず、仏法の大きな利益と真実の利益を自ら失ってはなりません。

——生如法師の開示
前へ前へ

如来蔵は無相であるが、如何にして意識心によって観察され得るのか

次へ 次へ

如来蔵はどのように業種を記録し、収蔵しているのでしょうか?

ページトップへ戻る