衆生無辺誓い度す
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日常開示

2018年06月13日    水曜日     第3 回の開示 合計636回の開示

如来蔵は無相であるが、如何にして意識心によって観察され得るのか

如来蔵自体は無相であるが、その運行には行相があり、跡をたどることができる。この無相の行相は如来蔵が変現する必要がなく、如来蔵自体が真実の法であるため、真法は変現を待たずに顕現する。したがって如来蔵は内外の相分に属さず、如来蔵に何らかの作用があれば、智慧ある第六識によって感知され、その形なき無相の跡を捉えることができるのである。

如来蔵の心所法の作用にも行相があり、識を転じて智とする第六識は、如来蔵の心所法が無形無相で作用する様子を現前に観察し得る。物体の揺れから風の勢力の大きさを観察できるように、風の勢力という無形無相の相を第六識が現前に観察し得るのと同様に、如来蔵を観察する理もまた同じである。

ただし如来蔵の心所法の作用を観察することと、如来蔵の運行する行相を観察することには、微細な差異が存在する。

意識が如来蔵の行相を観察する際、この行相は如来蔵が変現するものではない。如来蔵は真実であるため、仮法のみが変現を必要とするからだ。如来蔵のこの運行行相もまた如来蔵の本体ではなく、如来蔵が顕現させた相であり、仮でも真でもない。例えば如来蔵の真実性と如如性は、真でもなく仮でもない。また実法でもなく、実法は如来蔵本体と仏性のみである。

阿羅漢の無余涅槃においては、仏のような無上の智慧をもってしても、如来蔵の本体を観察することはできず、その運行行相も観察できない。よって如来蔵は無相で不可視であると言われる。その運行の行相も、如来蔵の作用が五蘊の虚妄法の上に顕現する時に初めて現れ、如来蔵の機能作用に付随するものであり、実体ではない。

如来蔵が運行する行相は一種の法塵であり、意識心の智慧認知の有無に関わらず、この法塵相は常に存在する。これは如来蔵が作用する時に顕現するもので、変現されたものではなく、種子がないため、意識に智慧がなければこの法塵相を識別できない。同様に如来蔵の心所法の運行も法塵相であり、意識の存在有無や智慧による識別の可否に関わらず、この法塵相は常に存在する。これは如来蔵が変現したものではなく、如来蔵が自ら作用する時に顕現するものである。

例えば人が昼間の太陽光下で歩行・坐臥すれば、自然に影が生じるが、これらの影は人が主観的に変現したものではない。両者の道理は相似ているが完全に同一ではない。あまりに深微な法は詳細に説き尽くせず、観察の智慧ある者同士が以心伝心で理解し合うものである。

——生如法師の開示
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