衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年06月13日    水曜日     第2 回の開示 合計635回の開示

意根は決して休むことがありません

意識が既に了知した部分は、再び思考する必要がなく、意根自らが黙々と思量する。意根の思量方法は非常に特殊で、意識の思惟とは差異がある。ここで言う特殊とは、意識が意根の思量性と思量方式を観察することが極めて困難であることを指す。故に多くの人々は意根に思惟思考活動があることを否定し、意根に何らかの心理活動があることを否定する。これらの人々は余りにも軽率で、過信しすぎている。

言語が存在せず、心中が沈黙している時、意識に思惟は無いが、意根は働き続けており、決して停止することはない。意識は頻繁に思惟活動を停止し、休息や睡眠状態に入るが、意根は決して休まず、絶え間なく様々な問題を思考し思量し続ける。これは極めて秘匿的で、意識では発見できない。意根が思考する時、その作用は非常に深遠で観察が困難であり、脳エネルギーを消費し、脳波の神経的変動を引き起こす。

故にある人物が話さず分析しない時、我々は決してその者に思想が無く、観念が無く、主意が無く、心の働きが停止し静寂であると考えてはならない。そうではなく、その意根は高速に回転活動し、思量し、考量し、考証しているのである。その作用は深く秘匿的である。その後、その者の心中には一定の規範が形成され、主意が生じ、主張が確立し、決択がなされる。しかし必ずしも外部に発言する必要はなく、表現する必要もなく、他者に知らせる必要もない。しかし心中には確固たる力が宿り、態度は堅固となり、場合によっては不可動さえ示す。

一方で意識が思惟分析を通じて結果を得て決定を下しても、心中はそのようではなく、依然として躊躇し定まらず、主意を決めかねる。これは意根が知解しないため、心中に必ず疑念が存在するからである。

——生如法師の開示
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