意識がすでに理解した部分は、再び考える必要がなく、末那識(まなしき)自らが黙々と思量(しりょう)を続けます。末那識の思量方法は非常に特殊であり、意識の思惟(しい)とは異なります。その特殊さとは、意識が末那識の思量性や思量の方法を観察することが非常に困難であることです。そのため多くの人々は、末那識に思惟思考活動があることを否定し、末那識に何らかの心理活動があることを否定します。これらの人々はあまりにも軽率であり、過信しています。
言葉がなく、心の中で沈黙しているとき、意識は思惟活動を停止していますが、末那識は活動を続けており、決して停止することはありません。意識はしばしば思惟活動を停止し、休息や睡眠状態に入ることができますが、末那識は決して休むことなく、絶え間なく様々な問題を思考し、思量しています。これは非常に秘匿的であり、意識はそれを発見できません。末那識が思考するとき、その作用は非常に深遠で観察が困難であり、脳のエネルギーを消耗し、脳波の神経的波動を引き起こします。
したがって、ある人が話さず分析もしていないとき、その人に思想がなくなった、観念が消えた、主意(しゅい)が失われた、心の働きが停止して静かになった、と決して考えてはいけません。そうではなく、その人の末那識は高速で回転し活動し、思量し、はかりごとをめぐらし、検証を重ねています。それは非常に深く秘匿的です。その後、その人の心には一定の見解が生まれ、主意が芽生え、主張が形成され、選択がなされます。しかし、必ずしもそれを口に出す必要はなく、表現する必要もなく、他者に知らせる必要もありません。しかし心には確かに力が宿り、態度は堅固になり、揺るぎないものさえとなります。
一方、意識が思惟分析思考を通じて結果を得て決定を下しても、心の内側はそのようにはならず、依然として躊躇(ちゅうちょ)が続き、主意を固められません。なぜなら末那識がそれを理解しておらず、心には必ず疑念が存在するからです。
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