衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年04月03日    土曜日     第4 回の開示 合計3266回の開示

父子合集経講話(一八六)

殺生の罪業には程度の違いがある

原文:大王。最後識滅。名付けて死蘊と為す。最初識起。名付けて生蘊と為す。

釈:仏は説かれた。大王よ、命の最後において識心が全て滅びた時、五蘊は死蘊と呼ばれる。最初に識心が生じた時、五蘊は生蘊と呼ばれる。

この世の命が終わり、最期に断息する時、眼耳鼻舌身意の六識が滅びる。識が滅びた後は死蘊となり、身体は木の如く覚知なく、生命を失い、生蘊ではなく木彫りの像のような死蘊となる。次の世の色身に再び六識が生じた時、完全な生命体が現れ、五蘊の諸機能が活動する。母胎内で六識が現れていない時は完全な人間とは言えず、四ヶ月後から六、七ヶ月で六識が備わる時、初めて完全な人間となる。識心が生じる前は生き人とは言えず、また死人でもない。第七識と阿頼耶識が存在する故である。故に堕胎は半殺生に属し、妊娠月数によって殺生の罪業の程度が異なる。六ヶ月以前の堕胎は胎児が完全な生命体ではないが、依然として罪があり、その大小は異なる。六ヶ月以上の堕胎は完全な殺人に属する。胎児が既に完全な生命体である故である。識心が生じていない時の堕胎は殺人とは見做されないが、確かに罪業がある。

卵を食べる行為は完全な生命体に属さないが、受精卵を含む卵は将来鶏となる可能性があり、果報がある。卵を食べることと鶏を食べることは異なる果報であり、罪の大小の問題である。卵は受精卵を含むが完全な生命体ではなく五蘊の活動がない。雛が孵る時、あるいは孵化直前になって初めて完全な生命体となり、その時は殺生と見做される。

故に堕胎せざるを得ない場合は出来る限り早期に行うべきである。早ければ早いほど胎児の苦痛が少ない。識心の活動がない為、苦痛を知らず、死後識心が中有に戻り、無駄に生を受けたことを知って恨みの心を抱く。胎児の意識心が生じていない時の堕胎では苦痛を感じない。中有の境界で識心が再生する時に初めて苦痛と恨みが生じる。殺業には多くの程度差があり、五蘊の具足有無によって自らの業がどの程度の罪業かを判断できる。

罪業の大小は心行にあり、瞋りの程度、殺心の有無による。例えば麻袋に生きた人間が入っているのを、無意識に殺害した場合、故意の殺人とは見做されず、地獄での報いを受けない。しかし将来その人物と出会った時、無意識に殺される因果が生じる。麻袋が人でない物を、人と誤認し瞋恨をもって殺害した場合、対象が生命でなくとも、人を殺す心があれば大罪となる。罪の大小は用心次第である。

極めて悪意をもって蟻を踏み殺せば、この罪は甚大である。瞋りの心が強烈な為、通常の殺生とは異なる。通常の殺生が無心あるいは軽い瞋心を伴う場合、果報も全て異なる。故に法律の量刑も同様で、故意殺人と過失致死では判決が異なる。

——生如法師の開示
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