業を造り報いを受ける主体は識である
原文:大王よ。識はその主である。業は攀縁である。二種は互いに因となる。初めの識が生起する。業を作り報いを受ける。いずれも失われ壊れない。あるいは地獄に趣き、あるいは畜生に堕ち、閻魔羅界、及び阿修羅。人であれ天であれ、同分の種類において、相続して絶えることはない。
仏は説かれた:大王よ、阿頼耶識は業を造る主人であり、造られた業行が業縁として、阿頼耶識が業行を縁とすること、これが来世の色身が生まれる因縁である。色身の最初の識心が生じた時、前世で造った業により、今世で報いを受け始めるのである。業を造ることと報いを受けることは、どちらも散失しない。この者は必然的に地獄・餓鬼道・畜生道・阿修羅道、及び人道と天道へと趣き、業行に応じた五蘊身が相続して絶えず運行していくのである。
阿頼耶識と業縁が結びつくことで、来世の初めの識が生じる。識が生じると同時に苦受が生じ、業報が現前する。感受があって初めて正式に報いを受けるのである。では、報いは身体に受けるのか、それとも心に受けるのか。主に心が報いを受ける。なぜなら心に感受があるからこそ報いを受けると言えるのであり、もし色身に識心がなければ、いかに様々な苦受を加えても、色身は苦しみを感じることはなく、苦受がない。したがって報いを受けるのは主に心であり、心があって初めて苦楽を感じることができ、心がなければ苦楽を感じることはできない。
例えるなら、木でできた机には業報はない。机に対して如何なる作業を行っても、机には何の感受もなく、報いを受けることはない。心があるから感受があるのであり、したがって果報は心が受けるのである。心が業を造り、心が報いを受ける。造った者が受けるのである。身体は業を造ることができるだろうか。もし身体が業を造ることができるなら、机も業を造ることができ、泥で捏ねた人形も業を造ることができるはずである。しかし泥人形には心がないので、業を造ることもできず、報いを受けることもできない。死者は業を造らず、報いも受けない。しかし業を造るこの心は生滅変化し、無常であり、消滅しうるものであるため、真実ではない。識心は外縁に依存し、阿頼耶識が種子を送り出して初めて識心は作用する。阿頼耶識が種子を送り出さなければ識心はなく、何もできなくなる。この話を理解できる者、因縁と福報が備わっている者ならば、小乗の悟りを得るだけでなく、完全に大乗の悟りを得て、如来蔵を証悟することができるのである。
識心が生じた後は、業を造り報いを受けることも失われず、理由もなく消えることはない。業を造れば必ず果報が現前し、業を造って終わりということはない。もし地獄の色身を受けるなら、その色身は地獄において相続して絶えず、地獄の寿命がどれほど続くかによって、識心はそれだけの間作用し、それだけの間苦受を感受する。眼識は同じ色身において作用し、耳識は同じ色身において作用し、意識は同じ色身において作用する。色身が変わればこれらの識も変わり、前世のことは分からなくなり、思い出せなくなる。これが記憶喪失である。心が変わったため、前世の事柄に対する認識性が失われるのである。
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