殺生の罪業の程度にはそれぞれ違いがある
大王よ、最後の識が滅することを死蘊と名づけ、最初の識が起こることを生蘊と名づく。
釈:仏は説かれた。大王よ、命の最後に至り、識心がすべて滅した時、五蘊は死蘊と呼ばれる。最初に識心が生じた時、五蘊は生蘊と呼ばれる。
我々のこの一生が終わり、ついに命終の息絶える時、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの識が滅する。識が滅した後は死蘊となり、身体は木のようになって覚知がなく、生命もない。もはや生蘊ではなく、木彫りの像や泥人形のような木塊、すなわち死蘊となる。次の世の色身において再び眼・耳・鼻・舌・身・意の六識が生じると、完全な生命体が現れ、五蘊の様々な機能活動を持つようになる。もし母胎内で六識が現れていない時は、完全な人間ではない。四ヶ月以降、六、七ヶ月になると眼・耳・鼻・舌・身・意の六識がすべて備わり、その時こそ完全な人間となる。識心が生じる前は生きている人間とは呼べない。なぜなら識心がないから完全な人間ではない。また死人でもない。第七識と阿頼耶識が存在するからである。よって堕胎は半殺生に属する。これが何ヶ月目の堕胎かによって、殺生の罪業の程度は異なる。妊娠六ヶ月未満の堕胎の場合、胎児はまだ完全な生命体ではないが、それでも罪はある。ただその大きさが異なるだけである。六ヶ月以上の堕胎は完全な殺人に属する。胎児がすでに完全な生命体だからである。識心が生じていない時期の堕胎はまだ殺人とはいえないが、確かに罪業はある。
我々が卵を食べる場合、この卵も完全な生命体には属さない。しかし卵の中には受精卵が含まれており、将来鶏へと変化する。これにも果報がある。卵を食べることと鶏を食べることは、二つの異なる果報であり、罪の大きさの問題である。卵の中には受精卵があるが、まだ完全な生命体ではない。五蘊の活動がないからである。ひなが孵った時、その時になって初めて完全な生命とみなされる。あるいは殻から出る直前には、すでに完全な生命体であり、それも殺生に当たる。
したがってどうしても堕胎せざるを得ない場合には、できるだけ早く行うこと。早ければ早いほど胎児の苦痛は少ない。なぜなら識心の活動がなく、苦しみを知らないからである。ただ死んだ後、識心が中有(ちゅうう)に戻り、自分が無駄に生まれ変わったことを知り、心には確かに恨みの意を持つ。胎児の意識心がまだ生じていない時期の堕胎では、苦痛はない。中有の境界に戻り、識心が再び生じた時に初めて、苦痛と恨みの意が生じる。殺生の業には様々な程度の違いがあり、五蘊が具足しているか否かによって、自らの業がどの程度の罪業であるかを判断できる。
その中で罪業の大小は、心の行い、瞋りの程度、そして瞋心や殺意の有無にもかかっている。例えば麻袋の中に完全な生きている人間が一人おり、ある人が知らずに彼を殺した場合、麻袋の中が人間だとは知らず、生命のない物体だと思い、刀を突き刺して人が死んだとする。これは故意の殺人ではなく、死後も地獄に堕ちて報いを受けることはない。とはいえ、将来その人に出会った時、やはりその人に知らずに殺されることになる。ただ地獄で悪報を受けることはないだけである。人を殺す時、それが故意か過失かを見る必要がある。故意の殺人は殺罪であり、人を殺す業に属する。過失の殺人は完全な殺人行為ではないが、それでも因果はある。別の面から言えば、もしこの麻袋の中が人ではなく木の塊であった場合、ある人が瞋りから別の人だと思い込んで殺したとする。本来、木は生命ではないので、それを殺すことは薪を割るのと同じである。しかし内心に恨みと殺意を抱き、人として殺した場合、この罪は大きい。罪の大小は心の用い方による。
もし極めて悪意をもって蟻を一匹踏み殺した場合、この罪も大きい。なぜなら瞋心が重すぎるからであり、普通の殺生とは異なる。普通の殺生は時に過失であったり、わずかに瞋心を含んだりするが、その果報はすべて異なる。したがって法律上の量刑も同様で、故意殺人と過失殺人に分けられ、判決結果もすべて異なる。
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