戒・定・慧の三無漏学の功用 漏とは、貪・瞋・痴の煩悩漏や種々の無明漏を指します。漏らされるのは善法、善願、善心、善根であり、心が善であれば輪廻の苦から脱し、心が善であれば仏道を成就できます。善法を漏らすことは、すなわち悪不善法であり、生死輪廻の苦を断つことはできません。したがって、修行によって心の無漏を達成し、無明を取り除く必要があります。心の無漏を実現する主な道は三つあり、それが戒・定・慧の三無漏学です。戒を保つことによって心を無漏にし、定を修めることによって心を無漏にし、慧を修めることによって心を無漏にします。 なぜ戒を保つことが心を無漏にできるのでしょうか。戒を保つことができるならば、心は戒律に背かず、悪をなすこともできず、貪・瞋・痴の無明煩悩業を造作することもできません。長い時間が経ち慣れてしまえば、心は自然に悪業を造作しようとは思わなくなり、煩悩は降伏され、善法は増長し、四正勤が修得されます。長期にわたり戒を保てば、心は効果的に収摂され、あちこちに攀縁することなく、禅定が現れます。
なぜ禅定が心を無漏にできるのでしょうか。心が定中にあれば作為することなく、攀縁せず散乱せず、貪・瞋・痴の染汚業を造作しないため、煩悩を降伏させます。定から出た後も慣性の作用によって、定力はある程度保たれ、攀縁を好まず、心は安らかで乱れた造作をしないため、依然として煩悩を降伏させることができます。もし未到地定が具足していれば、欲界の五品の煩悩を断除し、初果向となり、現世において初果に入る因縁条件が生じます。
外道たちの四禅八定の定力はさらに強く、欲界の九品の煩悩惑だけでなく、色界の九品の煩悩惑も降伏でき、さらには無色界の九品の煩悩惑までも降伏できます。ただし、この降伏は断除や断尽を意味するものではありません。なぜなら、まだ五蘊無我の智慧が欠けているからです。もし四聖諦の理に遇い、深甚な禅定力に依って、念を収め少し思惟すれば、すぐに道を証し、煩悩を断尽し、身心脱落することができます。四果の阿羅漢を証得する時には、髪が自然に落ち、袈裟をまとうようになります。これは煩悩が断尽したことを表し、自然と出家者となるのです。三果以前はまだ煩悩が残留しているため、髪が自然に落ちず、袈裟をまとうこともできず、自然に出家者となることはできません。したがって、もし在家の身の人が、比丘戒や比丘尼戒を受けることなく出家者になろうとするならば、煩悩を断尽し、髪が自然に落ち、袈裟をまとう必要があります。人に剃度してもらう必要はありません。在家の身にわずかでも煩悩があれば、それは在家の人です。もし自分は出家者だと無理に言うならば、それは強引に出家僧宝の身分を盗み取り、僧と俗を混淆させることであり、極めて重い罪に属します。
なぜ智慧が心を無漏にできるのでしょうか。無我の四聖諦理や大乗真理を証得する智慧は無明を破ることができます。心中に無我であれば、再び我のために造作することはなく、我のためでなければ無私であり、無私とは善であり、善は煩悩を破るため、心は無漏となります。我あれば即ち罪あり、我あれば即ち煩悩あり、我あれば善法を漏らすのです。この無漏慧は、戒と定を基礎とする真の智慧であり、戒定のない慧は乾慧(乾いた智慧)であり、実用価値がありません。戒・定・慧の三つが一体となって、共に一切の煩悩を断尽し、善法が永遠に再び漏れることはなくなります。善法が円満に具足した後、仏となるのです。
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