衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年04月03日    土曜日     第1 回の開示 合計3263回の開示

昏沈定と清明定の違い

昏沈定とは、座禅時に半ば眠り半ば覚めたような状態を指します。ぼんやりとして朦朧とし、心が清明ではなく、所縁境がなく、覚照力・覚観力・覚知力を欠き、休息によって心を養う状態に似ています。身体は比較的快適ですが、観行の智慧がありません。この定に耽ると禅定の進歩が極めて遅く、心境は多少改善されても智慧の生起には繋がらず、正定には属しません。清明定とは座禅時に心が明瞭で清明であり、所縁境を持ち、覚照力・覚観力・覚察力を備え、定慧が等しく保たれた正定を指します。定力があり、境界に対して智慧の認知を生じさせ、無明を打破でき、身体にも変化が現れます。心に所縁境がなければ無念無想となり、あるいは昏沈に陥ります。思考力も観行力も失われます。

昏沈定は正定ではなく、定力がなく観行の智慧も生じず、智慧力もありません。正定は清明な定であり、定力を有し、定中で心に力が宿ります。この力は煩悩を降伏させ、煩悩を断除し、無明を突破して智慧の火花を生み出します。昏沈定において正念を提起できれば清明定に転換でき、清明定が長時間続いて疲労すれば昏沈定に戻ります。清明を保つためには、第一に身体を調順させ、気血の流れをスムーズにし、精神を充実させ、心に正念を保持し続けなければなりません。身心が相互に支え合い、身体の気血循環が良くなれば心は軽快で愉悦に満ち、容易に入定できます。心力が丹田に集中し丹田が温まれば、気血が全身に行き渡り、気血が通じれば心は安定しやすくなります。

思惟観行時に昏沈定に入ると観行が停滞します。四念処経に従って修習する場合、心に常に所縁境を保持し、失えば再び取り戻し、昏沈すれば覚醒します。心が常に清明であれば禅定と智慧の向上が共に急速です。心に禅定があれば問題を考えることは明瞭ですが、禅定がなければ曖昧で不明瞭です。禅定は観行の智慧と般若唯識の智慧を引き出す原理に基づいています。ある者は「証果明心に禅定は不要」と口先で言いますが、物を探す時でさえ禅定が必要です。定がなければ物の在処が思い出せないのに、ましてや生死の大事を、乱れた心でどう解決し処理できましょうか。

——生如法師の開示
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