意根が大乗法の如来蔵を親証する際、その親証の程度には大きな差があり、智慧の層次にも大きな差が生じます。七住位において、意根は如来蔵の極めて僅かな部分のみを証得し、如来蔵の体性を粗浅に観察できる程度で、その智慧の層次は非常に浅薄です。修行が進むにつれ、如来蔵の功能的体性を不断に観察し、如来蔵の機能性を次第に多く証得するに従い、智慧はますます深遠となり、心は如来蔵の無為無我性に依止するようになり、煩悩性障は次第に微細となります。
夢幻観を証得するに至り、初地・二地などの各種智慧の境界に入ると、如来蔵に含蔵される種子の部分を観察できるようになり、意根の如来蔵に対する親証の程度は極めて深遠となり、智慧も深広となりますが、未だ最深最広最細とは言えません。更に如来蔵の種子の機能作用を観行し続けることにより、親証する法はますます深細となり、如来蔵の種子の機能作用を全て観察し尽くし、完全に親証して余すところなく了知するに至れば、その智慧は円満具足し、一切種子の智慧を完全に具足し、無明を断尽し、生死を了畢し、徹底的に解脱を成就して修行は完遂されます。その後行う一切の事業は、全て衆生を度化し、衆生が解脱を得るためのものとなります。
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