いかにしてより多くの解脱の機会を得るか?
業行は東西南北四維上下中間のどこにも依り所を持たない。業が消滅する場所も存在する場所も見出せない。もし業行を蓄積する場所があれば大変なことになる。どこかに業を蓄積しておけば、いずれ必ず爆発する時が来る。業が付着した者は誰でも不幸になる。業には置き場所がない。来る時も蹤跡なく、去る時も影も形もない。しかし寿命が尽きる時、この世で造った業のすべてが心の中を速やかに閃光のように過ぎ去る。意識心はそれを感じ取り、明確に分別し、心の底まで全てを知り、何一つ見逃すことがない。その時こそ自らがどこへ向かうかを悟り、親族が業障から救済してくれることを切望するが、もはや言葉を発することも表現することもできない。中有の身になっても親族に伝えたいが、陰陽の隔たりがあり意思疎通ができず、異なる世界の者同士、言葉も通じない。
識が滅びればこの世は終わり、人生という夢に終止符が打たれる。今思えば現実生活もまさに夢の中のようだ。六識が滅びると業に従って流転する。意根が五陰身を求めるため、阿頼耶識が呼応して中有の身を現起させる。極善極悪の者には中有の身がなく、極悪人は直ちに地獄に堕ち、息絶えると同時に地獄身が現起する。極善人は死後すぐに天人の色身が現れ、直接天道に生じて福を享受する。地獄身が現れた後では、たとえ悪業を悔いて懺悔したくとも機会はなくなる。中有の身にある間はまだ懺悔が可能で、親族の救済も期待できるが、中有を経なければ業種は確定する。ただし地獄身のままで大いに覚悟し、心力が強ければ地獄を脱する者もいる。福報ある者は地蔵王菩薩が地獄の門で待ち受け、懺悔や仏法の偈を教え、共に誦すれば地獄業を消滅させ解脱できる。菩薩戒を受けた者が地獄に堕ちた後、犯した戒律を自覚して心から懺悔すれば、業を消し地獄を脱することも可能である。
よって日頃の修行では福徳を積み、智慧を修めねばならない。悪報を受ける時、解脱の機会は多く存在する。ただ福徳が不足し、法の使い方を知らず、自らの業行を懺悔する智慧がなければならない。経典を聴聞し仏法を学ぶことで、解脱への智慧を多く得ることができるのである。
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