昏沈定とは、座禅中に半ば眠っているようで目覚めているようでもなく、朦朧として意識がはっきりせず、対象となる境(所縁境)がなく、覚照力・覚観力・覚知力が欠如した状態である。休息によって心を養っているかのように、身体は比較的快適に感じられるが、観行の智慧はない。この定に入り感覚に執着すると、禅定の進歩は非常に遅く、心境は多少良くなるかもしれないが、智慧の生起には何の役にも立たず、正定には属さない。清明定とは、座禅中に内心が明晰で明るく、心に対象となる境(所縁境)があり、覚照力・覚観力・覚察力を備え、禅定と智慧が等しく保たれている状態であり、正定に属する。定力があり、境界に対して智慧による認識を生じさせ、無明を破ることができ、身体も変化を起こす。もし心に対象となる境がなければ、無念無想となるか、あるいは昏沈する。思考力もなければ、観行力もない。
昏沈定は正定ではなく、定力がなく、観行の智慧も生じないため、智慧力もない。正定は清明な定であり、定力がある。定中では心に力があり、この力は煩悩を降伏させ、煩悩を断ち切り、無明を打ち破り、智慧の火花を生むことができる。昏沈定でももし正念を提起できれば、清明定に転換できる。清明定も長時間続いて疲労すると昏沈定に転じる。清明を保つためには、第一に身体を調和させ、気血の流れを円滑にし、精神を充実させ、心中で正念を失わずに保つことである。心身は互いに依存し、身体の気血の巡りが円滑であれば心は軽快で愉しく、入定しやすくなる。そして心力を丹田に集中させると丹田が温まり、気血を全身に巡らせる。気血が通じれば心は定まりやすくなる。
思惟観行中に昏沈定に入ると、観行は停滞する。もし四念処経に基づいて修行するならば、心中に常に対象となる境(所縁境)を保ち、失っても再び取り戻し、昏沈しても覚醒できる。心中が常に清明であれば、禅定と智慧の向上は非常に速い。心に禅定がある時は物事を考えるのが明瞭であるが、禅定がない時は曖昧でよくわからない。禅定が観行の智慧と般若唯識の智慧を引き起こすのは、この原理によるものである。ある者はなおも根拠なく、証果明心に禅定は不要だと口にするが、物を探す時でさえ禅定が必要である。定がなければ物をどこに置いたか思い出せないのに、ましてや生死の大事を、どうして乱れた心で解決し処理できようか。
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