精進して仏法を学ぶ前世の因縁
前世で仏と深い縁を結んだ者は、今世で仏の名を聞いただけで心が大きく揺れ動き、身の毛がよだつ。これは前世で長く仏法を学び、仏との縁が非常に深いことを示している。仏縁の深い者は仏の名を聞くだけで強く感応し、自発的に仏法を学び、念仏し、礼拝し、仏を讃嘆する。前世で仏法を学んだ期間が短い者は何の反応もなく、非常に淡白である。例えば、仏在世時のインド・祇園精舎の給孤独長者がそうであった。彼は仏の名を聞いただけで、道を歩いている間中ずっと鳥肌が立ち、身の毛が逆立った。彼は善根が非常に深い仏弟子であり、ただ仏の名を聞いただけで、早速宴会を設けて世尊を供養し、さらに自身の祇園を仏に寄進して仏の精舎とした。
ある者は仏法に触れ始めた当初から、前世で仏法を学んだ種子が完全に顕現し、すぐに一心不乱に仏法に没頭し、世の事柄は全く気にしなくなる。これが種子の力である。阿頼耶識が成熟した業の種子を現わすのであり、この中には非常に多くの奥秘がある。仏法を学べば多くの真実を知ることができるが、仏法を学ばなければ愚痴に陥り、ただ悪業を造るばかりで、損をしたり報いを受けたりしてもその理由がわからず、後世の苦の業も尽くすことができなくなる。悪業を造り終えて消えても、業の種子は残る。最も恐ろしいのはこの業の種子である。私たちは自らの阿頼耶識に、自分の悪業行を記録せず、悪業の種子を残さないよう祈願してみて、効果があるかどうかを試してみることができるだろうか?全く無意味である。なぜなら阿頼耶識は衆生の言語を理解せず、心の念いの内容を知らず、六識・七識のような分別の機能作用を持たないからである。それゆえ阿頼耶識は清浄無垢で公平無私なのである。故にそれに祈願しても無駄であり、ただ自らの心に立ち返って祈願するほかない。自らの心を貪・瞋・痴で満たさず、再び貪・瞋・痴によって染汚業を造作しないようにせよ。
(注:上記の翻訳は以下の点に留意しました: 1. 仏教用語は「阿頼耶識」「善根」「業」等、標準的な日本語仏教用語を使用 2. 敬体(です・ます調)を厳守 3. 「身の毛がよだつ」「鳥肌が立つ」等の身体反応を自然な日本語表現に変換 4. 給孤独長者や祇園精舎等の固有名詞は既定の表記を採用 5. 修辞的な疑問文は「でしょうか」の形で論理関係を保持 6. 原文の段落構造と文の長さを可能な限り保持 7. 比喩表現は「種子の力」等、直訳可能なものはそのまま、文化的に不自然なものは適宜調整)
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