衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年04月02日    金曜日     第4 回の開示 合計3261回の開示

父子合集経講話(一八三)

精進する仏教徒の前世因縁

前世で仏と深い縁を結んだ者は、今世で仏の名を聞いた瞬間、心に感動が沸き立ち身震いが起こる。これは前世で長く仏道を修め、仏との縁が深いことを示す。仏縁深き者は仏名を聞くだけで強く感応し、自発的に仏法を学び念仏を唱え供養を捧げる。前世で仏法を学んだ期間が短い者は反応が薄く平淡である。例えば仏在世時のインド・ジェータヴァナ精舎の給孤独長者が典型で、道中で仏の名を聞いた瞬間から鳥肌が立ち続け、その善根の深さを示した。彼は仏名を聞くやいなや世尊を供養する宴を設け、自らの祇園を仏に寄進して精舎とした。

初めて仏法に触れた途端、前世の修行の種子が顕現し、瞬く間に仏法に没頭して世俗を顧みなくなる者もいる。これが種子の力である。阿頼耶識が成熟した業種を現出させるこの仕組みは、極めて深遠な奥秘に満ちている。仏法を学べば多くの真実を知れるが、学ばぬ者は愚痴に陥り悪業を重ね、苦報を受けてもその由も解らず、来世の苦業を断ち切れない。悪業が滅びても業種は残留する。最も恐るべきはこの業種である。我々は阿頼耶識に悪業の記録を留めぬよう願うことができるか? 全く無駄である。阿頼耶識は衆生の言語を解さず、心念の内容を知らず、第六・七識のような分別作用を持たない。故に阿頼耶識は清浄無垢で厳正無私な存在であり、祈願は通じない。ただ己が心に貪瞋痴を満たさず、それによって染汚業を造作しないよう自らを律するのみである。

——生如法師の開示
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