識の種子が出力され回収される過程は、循環ポンプのようである。如来蔵が業種を記録し、保存し、出力する全過程は、如来蔵の任運による作用であり、心行も主観もなく、完全に無為なるものである。一見有為のように見えるのは、表面的に如来蔵が常に運行し続け、一切の法を生成しているが、実際には全て任運によるもので、主体的能動性も主宰性もなく、全て無為なる心行である。なぜなら如来蔵には心行がなく、善悪を選択せず、弁別もせず、善業も悪業も等しく収蔵するためである。業種を収蔵するのも主体的な行為ではなく、識の種子が六塵を弁別して身口意の行いを造作した後、自然にその内容を連れ戻し、身口意の全業行を持ち帰るのである。
その中の心行、つまり貪瞋痴の性質と清浄性の心行も全て自然のままに法爾如として収蔵される。如来蔵が主体的に収蔵するのではなく、法爾の理によって自然に、本来あるべき過程のまま、一点の漏れもなく全てを収蔵する。点滴漏れないとは、各識種が弁別した内容が全て回収され、些細な欠落もないことを指す。如来蔵が自ら漏らさないと決めているわけでも、意図的に漏らすわけでもない。識の種子が自然に持ち帰るのであり、如来蔵には如何なる選択もできず、また選択しようともしない。六識の身口意行が造作されれば、如来蔵には収蔵するか否か、何を収蔵するかといった選択の余地は全く存在しない。
よって我々の身口意行の造作は極めて慎重であるべきで、善悪の如何を問わず、些細な善も悪も全て種子として保存され、将来必ず種子が出力されて果報を受ける時が来る。識の種子は如来蔵に戻り、心行はありのままに如来蔵に伝達される。水流が経由した場所のものを洗い流して持ち帰るように、自然の理のままである。如来蔵は選択せず、自然に収蔵し、循環ポンプが金剛砂であれ土砂であれ、持ち帰ったものを収蔵し、再び出力するのである。
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